最後の夜-1
地元を離れ東京の大学に進学したケンジは、急激に変化した生活になかなか馴染めず、講義や実習、水泳のサークル活動などで精神的にも肉体的にもくたくたになって余裕のない日々に追われていた。そんなケンジの心の支えが、必ず夜、寝る前に届くマユミからのメールだった。
マユミは地元のマネジメント系の短大に進学した。家から通える学校なので、両親はもちろんケンジも要らぬ心配をしなくて済んだ。やはりケンジにはマユミが今、どうしているか、ということが一番気がかりだった。ケンジはマユミとのメールの最後に必ず『会いたい』と送り、ベッドに入るのだった。そのケンジの一言が、その日の二人のメールのやりとりの締めくくりになっていた。
夏が近づいたある日、サークル活動でプールから上がったばかりのケンジに一人の競泳水着姿の女子学生が近づいてきた。
「海棠君、最近調子でてきたんじゃない?」
「あ、ミカ先輩。」
兵藤ミカはケンジの二つ上の学年だった。小柄でショートカットの髪、大きな瞳は、どことなくマユミに似た雰囲気を感じさせた。
「何かいいことがあった?」
「え?いや、別に・・・。俺もやっとここに慣れてきたかな、って感じですかね。」ケンジは頭を掻いた。
「そ。」ミカはそれだけ言うとケンジから離れていった。
実は7月最後の日曜日に、マユミがケンジを訪ねてくる、というメールをケンジは昨晩受け取ったばかりだった。ケンジの身体の中に湧き上がる熱い気持ちが自ずと生活のあらゆるシーンで彼に変化を与えていた。
「マユっ!」ケンジは電車から降りてきたマユミに駆け寄り、マユミが持っていた荷物もろとも抱きしめた。「ケン兄!ケン兄!会いたかった。」「俺も!」プラットフォームの人の列が、そんな二人をちらちら見ながら通り過ぎて行った。
「こ、ここに人がいなければ、今すぐお前にキスしてた。」
「キスだけで済むかな。」
「済まない。ベンチに押し倒して、それから、」
「もう、ケン兄のエッチ。」
ケンジは笑ってマユミの荷物を持った。そして二人は肩を並べてフォームの階段を降りた。
ケンジの住んでいるアパートを見上げて、マユミは言った。「けっこうきれいじゃない?」
「うん。家賃が安い割にはな。でもちょっと古いかも。」
「ふうん。」
ケンジはマユミを部屋に招き入れた。
「いつまでいられるんだ?」
「2泊しかできないんだ。ごめんねケン兄。ほんとはもっと長くいたいんだけど。」
「え?たったそれだけ?」ケンジは思い切り残念そうに言った。
「ごめん、夏の補習とかアルバイトとかで忙しくて。」
「お前バイトしてるのか?」
「うん。ケニーんちで。」
「へえ。お前には最適じゃないか。ケニーの店で働かせてもらってるのか。」
「そうなの。あ、これそのケニーんちからのお土産。」マユミはバッグからチョコレート・アソートの箱を取り出した。「今夏の新製品なんだって。」
ケンジはその箱を手に取った。「へえ。『Summer Rainbow』夏の虹、か。なかなか洒落たネーミングだな。」
「そう?あたしがつけたんだ。」
「へえ!お前そんなことまでさせてもらえてんの。」
「ケニーが、うちの一家はネーミングセンスないから、ってお願いされた。」
「なるほど。納得。」
「去年の夏のこと、思い出してつけたんだよ。」
「去年の夏かー。行ったな、そう言えば海に。」
「懐かしいね。」
「ほんとにな。」ケンジは目を閉じて去年のマユミとの一時を懐かしんだ。
「一年で、ずいぶん変わったね。あたしもケン兄も。」
「高校卒業したら、一気に全てが変化した、って感じだ。」
「大学は楽しい?」
「ああ。毎日大変だけど、充実してるよ。」
「良かった。」
「お前も?」
「うん。ちゃんと勉強してるよ。でも短大はずっと授業や補習がつまってて、高校の時と忙しさはあんまり変わらない。」
「そうか。身体壊さないようにな、マユ。」
「ありがとう、ケン兄。」
ケンジはマユミの両頬にそっと手を当て、優しくキスをした。マユミがケンジの首に腕を回した。ケンジはさらに唇を押しつけ、マユミの舌を吸った。「ん、んんんっ・・・。」マユミが小さく呻いた。