再生の時-1
その男は、複雑な顔をして言った。
「お前には、そのうち分かるさ」
それは僕を諭すような眼差し。
それは古ぼけた記憶。
いつか忘れ行く、忘れてはいけない言葉。
「おいっ、坂本。起きろ。」
言われて俺は目を開けた。周りを見渡す。正面には現国の教師、安西の鬼のような形相があった。
「お前、三年だってのに授業中に居眠りする奴がいるか!」
「あ、すんません。退屈だったもんで」
「なっ・・・」
クスクス
クラスのみんなは笑いを堪えるのに必死で、安西は怒りに耐えるのに必死だった。
「お前、出て行けぇぇ!」
あ、耐えられなかったみたいだ。
「じゃ、お疲れさまっす」
俺は言って教室を後にした。唖然とする教師と、にやける生徒たちの授業は続いた。
懐かしい夢だった。あれは俺が小学生の頃、まだ母親がいて、親父との関係がかろうじて正常だった頃の記憶だ。
そう、俺にも親父とまともに話せる時があったんだ。どんな会話をして、親父はどんな顔をして言葉を返してくれたのか。今は想像することもかなわない。
親父は、とにかく厳しかった。小さい頃から俺を容赦なく叱り、正しいあり方を示した。一昔前の父親像そのものであり、俺はそれに耐えられなかった。けれど一家の大黒柱に逆らうことなどできず、小学生の俺は親父に少しずつ反抗するようになっていった。
そんな時だった、あの男が訪ねて来たのは。
どんな容姿で、どんな言葉を交わしたのか。もう思い出せないけれど、ひとつ。
俺は、空の鞄を手に廊下を歩きながら、窓の外を睨んだ。空には我が物顔で、太陽が燦々と輝いている。
あの時、男が親父と何か色々と話をした後に、俺が問い掛けた時も、じりじりと太陽は何かを照らしていた。
「父さんと何を話したの?」
ただ、ひとつ。
その男は、複雑な顔をして言った。
忘れてはいけないやりとりがあった。
「お前には、そのうち分かるさ」
そう言った彼は、その日のうちに我が家を去った。難しい顔をして我が家に訪れたその人は、何かを得たようなすっきりとした顔で出て行った。彼の言う『そのうち』は、まだ訪れない。
屋上で横になっていると、いつの間にか日が暮れていた。
「三年一組、坂本君。指導室まで来るように」
校内中に俺の呼び出しがアナウンスされている。それを無視して俺は家に歩を向けた。
色々と道草して自宅に着いたのは午後十時をまわっていた。それは普段どおりの時刻であり、俺の日常である。家は、ただ寝るための場所に過ぎない。何も言わず乱暴に玄関を開ける。
ガラガラ
その音だけが親父に投げかける言葉。居間には普段どおり親父がいる。俺は一瞥すると自分の部屋に直行した。
いつからだろう。
口を開けば互いの罵声しか響かないようになったのは。
母が死んだ、あの日からか。
俺が初めて親父に手をあげた、あの日からか。
それとも最初からそうだったのか。
今はもう言葉は無く、同じ空間にいながら、まるで他人のように過ごす日々。
全てにおいて相容れなくなった俺たちにとって、それは最善の暮らしだった。
夜中。寝苦しさに耐えられず、俺は布団から出て一階に下りた。何か飲み物を取り出そうと台所に向かう。途中、居間から光が洩れていた。時刻は二時過ぎだろうか。襖の隙間から覗き見る。
親父が、ひとり。
静かに佇んでいた。
将棋盤を目の前に、親父は腕を組んでいる。
詰み将棋だろうかと思ったが、そうではない。まるで今から対局をするように駒が並べられている。しかし彼の目は虚ろだった。待ち続けて、待ち続けて、それでも来ない誰か。彼は既に廃人のように。
ぎり、と歯軋りの音。それは思いがけなく俺の発した音だった。その音に気付いた親父は、虚ろな目でこっちを向いた。