再生の時-4
「ん?」
親父が俺の背後に目をやる。そこには子供の俺が襖の隙から覗いていた。
「雅文っ、そんなとこにいないで勉強しろ!」
ダダダ、とその場から遠ざかる足音。この怒鳴り声こそ、俺の親父に対するイメージそのものだった。
「そんなに怒鳴らないでも良いじゃないですか」
母親が言う。
「けれどな、君江。雅文は今が一番大事なんだ。良い学校に行って、良い会社に就職して、俺より幸せになってもらわにゃ」
「もっと優しく言ってあげてもいいのに、本当にあなたは子育てが下手なのね」
あぁ、下手だ。確かに、親父は教育が下手だ。現に息子はこんな風になっちまった。けれど、けれど。
「父親らしく振舞ってるだけだ。何が悪い。あいつのためだ」
けれど、親父は息子を大事に思っている。
「親父さんみたいになりたいって言ってましたよ、雅文くん」
「雅文が?駄目だ、俺なんか目標にされちゃ。もっと大きく育ってくれなくちゃ」
そう言う親父の顔は、けれど嬉しさを隠しきれない笑みで。
とても、とても彼は息子を思っていた。第一に考えていた。ただ母親が逝き、彼の息子を思う気持ちは空回りしてしまっただけなんだ。
その日、俺は我が家に泊まった。
翌日の早朝。目を覚まし、欄干に出る。燦々とした太陽の下、親父はまた将棋をしていた。
「趣味ですか」
近寄って聞いてみる。
「ん、まぁな。君は出来るか?」
「いえ」
残念そうに、親父はまた盤上を見つめる。
俺は空を眺めた。
「もし」
今日も暑くなるのだろう。雲ひとつ無い晴天だった。
「もし、雅文君が愛情を歪んで受け止めてしまったら、どうしますか」
彼は盤を向きながら言う。
「どうしようもないな。雅文を咎められはしない。それは俺の責任だろう。背負いながら生きるさ」
10年後の親父は、今も俺の過ちを背負いながら生きているのだろうか。焦点を失いながら、俺に許しを請いながら、ひとり。全て俺のせいだというのに。
「何か」
俺はまっすぐに親父を見る。
「息子に何かしてほしいことはありませんか」
親父は、俺を見た。その視線に、家族の繋がりを確かに感じた。
「いつか」
ぼそり、と。
「いつか、な。雅文が大きくなったら。対局したいな。こんな寂しい詰み将棋じゃなくて。雅文とふたりで。それが」
風が凪いだ。
それが、俺の夢だ。
朝なのに、空はオレンジに染まる。
もう、時間のようだ。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げた。これまでの苦労と、これからの更なる苦難に対して。
「あぁ、じゃあな」
俺は玄関に向かう。途中、俺に会う。それは分かっていたこと。
「父さんと何を話したの?」
心配そうに尋ねる。大丈夫、お前は愛されているよ。これから随分と苦労するけれど、いつかお前は、俺に追いつく。今、俺が抱いている答えに、お前は到達するから。
「お前には、そのうち分かるさ」
だから心配するな。
言って俺に別れを告げる。
頬をひとつ、新しい風が凪いだ
何か、ずっと遠い未来に吹く風に、いま包まれるように。
此処ではない何処かが俺を呼んだ。
吸い寄せられるようにドアノブを掴む。
そしてまわす。
――― さよなら
柔らかい声が聞こえた。胸の内から、世界の外から。
「さよなら、母さん。」
誘われた何処かに、俺は降り立った。
そこは我が家の前。時計に目をやる。時刻は夜七時をまわったころだった。
「ただいま!」
威勢良く響かせる。
そしてその足で、居間へと向かう。
そこにはやはり、ひとりで将棋盤に向かう親父の姿があった。部屋は薄汚く、服はくたびれ、かつての威厳は見る影も無い。けれどそれは、俺に愛情を注ぎ続けた証だと気付く。
俺は部屋に入り、親父の向かい側に腰を下ろした。そして目を見る。相変わらず、虚空を泳ぐ視線。その先には、きっと立派に育った息子がいるに違いない。
ごめんよ、ごめん。
親父の育て方が間違っていたんじゃなくて
俺の育ち方が間違っていたんだ。
親父の思いは、長い時間を経てようやく伝わった。
それならば、俺の思いは届くのだろうか。
少なくともそれ以上の月日が必要になるのだろう。
親父が注ぎ続けた以上の愛情と根気がいるのだろう。
けれど、きっと。
「将棋の指し方を、教えてくれないか。」
投げかけられた言葉に、二つの瞳は戸惑い。
そして大きく頷いた。
きっと俺たちは上手くいく。
だって家族ってのは、そういうものだろう。
なぁ、父さん。
完