30 志保-2
2人が笑っていた目線が、ある1点に集中した。私はベーグルをコトリとお皿に置いた。
ガラスの下、桜の木の下に明良がいた。あの日と同じ目で、私達を見ている。
「ねぇ、行った方がいいんじゃない?」
鈴宮君は私を心配してそう言ってくれた。
「行かない。今行ったって、行かなくたって、帰ったら殴られるのは分かってる。だから行かない」
そう、今行ったって、家まで引きずられて、家の中で押し倒されてビンタされて。
少しでも時間は短い方が良い。そう、少し我慢すればすぐ終わるから。
「あのさ、俺の住んでる寮、知ってる?」
「あぁ青葉寮?」
独身男性専用の寮で、オートロック式の綺麗なマンションだ。ちなみに女性は「紅葉寮」だ。分かりやすい。
「覚えておいて。505が俺の部屋。506が鈴木さんの部屋。何かあったら走っておいで。駅からなら5分かからないから。走ったら3分ぐらい?」
ゴーゴー、とゴム、で覚えて、とにっこり笑ったけれど、今度の笑いは少し引き攣っていた。だけどまた「好きだな」と思った。
人のピンチに笑顔で助けの手を差し伸べる、そういう人、好きだな。
一緒に悲しんでくれる朋美ちゃんも好きだけど、こうして前向きに笑ってくれる鈴宮君を、私は好きだと思った。
食べかけのベーグルに手を伸ばし、ひと口食べた。クリームチーズが滑らかでおいしい。ここのベーグルを食べると他の物が食べられなくなる、と朋美ちゃんと良く話す。
「ゴーゴーの鈴宮君は、意中の人に告白するって言ってたけど、結局したの?」
サンドイッチをモグモグしていたのをコーヒーで飲み下し、「あぁ、あれね」と答えた。
「あれね、言おうとしたんだ。そしたら相手が急に腹痛になっちゃって」
「あら、何、下痢?」
「こら、ここお食事処。違うんだ。お腹痛くて救急車呼んだんだ。血まで出ちゃって」
目が点になる、とはこの事を言うのか。
一応確認のため、自分の鼻に人差し指を向けると、鈴宮君は「そう」と言った。
今度は私が耳まで赤くなる番だった。
体中の血液が頭に上ってきてしまったような、恥ずかしい顔だろうと思った。見られないように俯いた。
こういう時は、どう言ったら良いのだろう。今まで明良ばかりと接していたので良く分からない。
正直な思いを口にしたらいいんだろうか。相手が正面切って言ってくれたんだから、こっちも思っていることを素直に言うべきだ。
なかなか言葉にするのが難しくても、ひとつとつ並べて、話してみよう。
「あ、あのね、こういうの慣れてないの。分かるよね?」
「うん、彼しかいなかったからね」
お、分かってる。この人分かってる。酷く冷静に微笑んで聴いている鈴宮君をちらりと見て、また俯く。
「考えた事も無かったの。明良の他に誰かの事を好きだっていう感情を抱いた事も無かったの。思っても押し殺してたの。今までの私だったら『ごめん、明良いるから』で済んでたの」
「うん。それで?」
鈴宮君はテーブルに頬杖をついて、私を斜めに見ている。何か、余裕だ。告白が終わった人の余裕だ。
「だけど、今回の流産の1件があって、鈴宮君とちょっとだけ近づいたというか――うん、そう思ってて、こうやってお茶して、話して、笑ってたら、この人好きだなあって、何度も思ったの。このシチュエーションが好きなのかな、とも思ったんだけど、そうじゃないみたい。相手が、好き、みたい。笑って、前向きに笑ってくれてる鈴宮君が、好き、みたい。」
まだ残っていたらしい末端の血液が顔に上る。もうこれで尽きただろう。鈴宮君は、にんまりしている。あぁ、ちょっと憎たらしいかも。
「ただね、まだ明良と一緒に暮らしてるし、上手く別れられるかどうかも分からない。別れようとして迷惑をかけるかも知れない。そう考えると、簡単に『ありがとう、お付き合いしましょ』なんて言えないの」
頬杖をついたまま鈴村君は表情を変えずに言う。
「別れるまで俺は諦めない。協力もする。迷惑だなんて思わない。俺の腕力じゃ彼に叶わないかも知れないけど、守る。もう志保ちゃんを傷つかせたりしない。それで彼と別れた暁には俺を受け入れてくれる?」
「どうしてそこまで――」
鈴宮君は顔を綻ばせて言った。
「好きだからに決まってんじゃん。俺はアナタが好きだから、付き合っていた女の子3人と別れました。自分だけ犠牲を払うっていうやり方をやめろと言ってくれた志保ちゃんに従ってね。そして、俺は振られてもいいから、好きな人に告白した。その人が少しでも俺を見てくれるなら、俺はその人を守るし、協力する事を厭わない。」
ズズズとコーヒーを飲む音がする。鈴宮君って、こんなにスパスパと思っている事を言う人だったんだ。
それでいて優しい。好きだな。
「分かった。私も頑張ってみる。DVの連鎖から抜け出して、独り立ちして、モテモテの鈴宮君の隣に君臨出来るように頑張ってみるよ」