『甘』-1
「チョコレート…」
この単語を聞いている僅かな時間、頭は急回転した。
ずっと貰えていない、チョコレートを2ヵ月遅れで貰えるのかもしれない。茶色も、甘い物も好きではないけれど、人から貰えるとなると何故か嬉しい。その名詞を呟いた本人は目を伏せたまま。
あとに何を呟くのか?見慣れたその顔を、とても長い時間見つめていた気がする。明らかに、チョコレートの後にはまだ続きがあるような語り口である。暫くただただ待つことに専念した。
頭の回転と自分の目線だけが早送りになった様に、聞こえる声にも風景にもいちいち考える事が簡単に出来る。
何故か頭には、どろどろに溶けたチョコレートのイメージまで浮かんだ。その、液体化したチョコレートをすくう指は自分の物だった。
もっとイメージは拡がる筈だったけれど、すぐに早送りのボタンから、指は引かれた。
「チョコレートコスモスって綺麗」
美味しそうだ。
戻された通常の思考の速さに、暫くその考えだけが頭に溜る。甘い物が好きではないのに、美味しそうだと思う事自体が不思議である。
期待が外れた事よりも、チョコレートコスモスの名前からくるイメージに捕われる。その事に不覚を感じながらも、返事もそこそこにチョコレートコスモスを食したならと考える。さっきの、どろどろのチョコレートのイメージを引っ張り出し、秋の桜コスモスの情報とかけあわせる。
「いつ咲くの?」
背景が必要だった。青空眩しい向日葵の隣りと、枯れ葉が時の経過を告げる中ではチョコレートの照りも違うだろうし、美味しさも随分違う事だろう。
「…さあ」
白くする事にした。部屋の壁紙で良いだろう。部屋でゆっくりと食する。結構ぢゃないか。季節なんて関係なく咲き誇り、一年中超越された甘さで人間を楽しませるのかもしれない。もしそうなら、その花を1ヵ月に一度摘みとっては、舌鼓を打ち、喜びに浸りたいものである。滴るチョコレートをすくうのは、無論自身の指である。
「甘いかな」
頭の中の考えが、口から溢れた。急回転から、いきなり回転を緩やかにした事による誤作動かもしれない。
見慣れたその顔は、辞典のようなやたらと厚い書物から、重々しく上げられた。
その細く白い指は、文字の配列を無視してページを摩る。
「貴方は、考えが甘い。咲く季節なんて聞く時点でね」
そしてまた重々しく頭を垂らす。
甘いらしい。自分は甘い人間らしい。
もしかして、食されるのは己なのかもしれない。こちらが、チョコレートコスモスの味を云々の話しではない。チョコレートコスモスは、人を食べて成長する植物なのかもしれないのである。
すなわち、甘い辛いを心配するのは人間ではなくチョコレートコスモス側であるという事だ。
そんな事を考える今も、チョコレートコスモスのイメージはどろどろに溶けた花びらのままである。甘い物は好きではない。茶色という色にも、特別思い入れ等ない。
しかし、その茶色く甘い物と、植物がかけあわされた物となると、なんと興味深い物になるだろう。それは、チョコレートを己で買う事より人から貰ったほうが嬉しいような感覚に似ている。
「甘いのよ。その考えが」
再び向かい側から声がした。巡らす考えを見透かされたように、その発言は自分の妄想としっくりときた。
甘いらしい。自分の考えは繰り返されるくらいに甘い物らしい。
何処からか甘い香りがする。チョコレートの香り。己の心に落ちて行ってしまいそうな、甘い香り。
チョコレートコスモスを、指ですくっているイメージが歪み始めた。歪むというより、現実味が一瞬にして増した気がした。イメージは勝手にリアリズムを語り、鮮明に動き出す。
変化の主導権を握っていた筈の自身の指が、僅かしかすくえなかったチョコレートに蝕まれていく。どんどん液体状のチョコレートは指を上り、腕へ、肩へとその甘い香りを強める。
そして、蝕むのは甘い思考。耳から入り込む、とろけたチョコレート。生温く、常温で溶かされたチョコレート。
チョコレートコスモスは、人間の甘い思想を打ち砕きながら蝕み、育つ。どろどろに溶けた花びらで誘う。
大きく拡げられた花びらと、血管の様に抜目無い葉に、自分の思考がプラスされる。消化されて、チョコレートコスモスの一部と化す。
悪くはない、是非見てみたい。なにより自分は、チョコレートコスモスに惹かれているのだし、蝕まれ一部となるのも苦ではない。
「育てたい」
やたら厚い、辞典の様な書物が視界にししゃりでた。
目の前の意地悪そうな顔が、妄想を透かし見ている。そして、それを壊そうと、現実を突きつけようとしている。茶色の花びらが踊る写真が、チラリと見えた。
リアリズムの上の、現実を見るのが嫌で、目を強く瞑った。
いっそ、このまま眠ってしまいたい。