47 冷酷な熱-2
「ねぇ、ミキ嬢」
改まって呼ばれ、「へ?」と腐抜けた返事をした。
「まだ、幸せそうに笑わないんだね。初めて会った時みたいに、キラキラ笑わないんだね。どうして?離婚してもまだ、何か辛い事があるの?」
アンタだよ、もう。なんて言えない。
「大好きな人が他に、いるんだ」
「そうなんだ。どんな人?」
アンタだよ、もう。だから言えないって。
「凄く大人な人。絶対に手の届かない人。彼女がいるんだ」
「好きって、伝えたの?」
「伝えてないよ。負け戦だもの」
「言わないで後悔するより、言って後悔した方がいいよ」
「うん――」
空気読もうよ、おーい。
「でもね、こういうの、もうやめようと思って。
好きな人を一杯拾い集めて、一杯関係を持って、捨てられないまま自分を追い詰めちゃうの、もうやめようと思ってるの」
「ん?具体的には?」
サトルさんに続きを促される。
「もう、好きな人には合わない事にする。関係は断ち切る。そして今の彼と、笑い合えるようにする。心からね」
うん、うん、とサトルさんは2度頷いた。
「じゃぁ俺が今、ミキ嬢の隣に行って抱こうとしたら、ミキ嬢は拒絶する?」
返事に困った。実際にそうされたら、身体を許してしまうような気がする。そうされるまえに返事だ。
「そうだね、やめろコンチクショーって言う」
フフッと短く笑ってサトルさんは言った。
「そうだよね。変な事訊いてごめんよ」
無言で頷いた。もう、この人は一体何をしに来たんだ。セックスか?セックスなのか?
さて、と言ってサトルさんは立ち上がった。
「コーヒーも飲んだことだし、ミキ嬢の近況も聴けたし、そろそろ家に帰るかな」
これで最後になるかもしれない。死ぬまで、死んでも会えないかも知れない。好きで好きで、大好きだったサトルさんに。
玄関に向かうサトルさんの背中を目に焼き付ける。
痩せた身体からは想像がつかない、しなやかに筋の張った背中。最後にこの手で触れたのはいつだったか。
「帰り道、分かる?」
「何となく分かるよ」
玄関を開けると、紙吹雪の様だった雪が、大粒の雪になっていた。マシュマロみたいだった。本降りだ。
「サトルさん、ひとつ、お願いしてもいい?」
「どうぞ」
「ハグ、して欲しい」
「うん、いいよ」
冷たい空気に包まれた身体を、サトルさんの腕が包み込む。頬と頬が触れ合う。いつか見た光る白い雪は、今は見えない。灰色がかった雪の塊が、そこらじゅうに点在している。そして目の前を雪がはらはらと落ちて行く。
あの日、あの瞬間を、私は忘れないだろう。
白く光る雪。長い口づけ。甘い空気。
短くキスをした。酷く残酷な、最後のキスを。
「ありがとう」
そう言うとサトルさんは笑いながら言う。
「大げさだなぁ、何かもう会えないみたいな感じになってるけど」
返事に窮したが、何とか静かな笑顔で返した。
「それじゃ」
サトルさんは雪が降る中、書類ケースを傘代わりに歩いて行った。傘を貸す事はしなかった。また、会う口実が出来てしまうから。
部屋に戻り、携帯を取り出した。言えなかった事。言わなければ終わらないから。
『今日は遠い所どうもありがとう。久しぶりに会えて、嬉しかったです。
私はサトルさんが好きでした。初めて会った時から好きでした。だけど手の届かない人だと思っていました。傷つくのが怖くて、なかなか好きって言えなかった。サトルさんがどういう気持ちで私を抱いているのか、ふわふわしていて掴めなかった。
いつか見た白い雪を、私は一生忘れません。もう、会う事は無いけれど、ずっとあなたを想い続けると思います』
送信ボタンを押す指が震え、何度も躊躇った。
終わらせるんだ。今日で終わりにするんだ。
送信ボタンを押した。
これで終わったんだ。私が持っていた要らない物は全て、捨てたんだ。
『新生活、楽しめているようで何よりです。
俺の事が好きだなんて、言ってもらえて嬉しいです。つくづくタイミングの神様に見放されてるね、俺たちは。
ミキ嬢は今の彼と幸せを掴んで下さい。俺は、今の彼女といつまで続くか分からないけれと、幸せだと言える毎日を送ろうと思っています。
心から楽しそうに、嬉しそうに笑うミキ嬢が俺は、大好きでした』
携帯から、サトルさんのアドレスを消去した。それまで下睫毛に支えられていた大粒の涙が、重みに耐えられず、ほろりと三粒零れた。慌ててティッシュで拭った。