44 プロテスタント-2
引っ越し先のマンションの前で、ハルさんが待っていた。引っ越しの手伝いをしてくれる約束だった。
「就職決まったんだ、知らせたくて」
会うなりそう言った。余程嬉しかったんだろう。
「おめでとうぅっ。タイミング良いなぁ。じゃぁ今日は引っ越し祝いと就職祝いで呑みますか?」
「ですね」
引っ越し屋さんのトラックから荷下しをする作業を、ハルさんも手伝ってくれた。引っ越し屋さんが帰ると、今度は荷解きまで手伝ってくれる。
「とりあえずお酒が呑める程度の荷解きで、いいよね」
大型家具はテーブルとベンチぐらいで、あとは後日ベッドやダイニングテーブルが届く。ソファはふかふかの物ではなく、合皮のベンチにした。軽くて、掃除もしやすそうだから。すわり心地は――良くないけれど。
新しいベンチに座って乾杯をした。缶と缶が当たる音がする。
まだ段ボールがあちこちに転がっているけれど、明日1日で片づけよう。
「仕事はどの辺で?」
「ミキちゃんの職場に結構近い方だよ。で、独身寮に入るんだけど、ミキちゃんの最寄駅から地下鉄で3駅だね」
「引っ越しはいつ?」
「来週末」
「じゃぁ今日のお礼に手伝うよ」
柿の種をぼりぼり食べながら、ビールを飲む。おっさん二人の光景。
「そうだ、何祝いか分からんけど、ウォッカ持ってきた。あと、ミキちゃんの好きなトマトジュースも」
「うわ、ブラッディメアリー作れるじゃんかっ」
テンションが上がった。私は自分でウォッカなんて買わないから、ビールとトマトジュースでレッドアイ程度しか作れないのだが、ウォッカがあれば大好きなブラッディメアリーが作れる。
「新潟はどうだった?」
「うん、知らない街だった」
何だその感想は、と突っ込まれた。
「フェスは小規模だったけど、まぁ良かったよ。静かに観れたしね」
「で、一緒に行った彼とは、あれ、そんな感じになっちゃったの?」
正直に話すべきか迷った。ハルさんは、私と太一君の間に何も無かった事を願っている。ここで私が正直に話したら――でもハルさんを選んだ、なんて調子の良いことを言ったら――。ここは言葉の曖昧さに甘えよう。ここだけは嘘を吐かせてほしい、そう思った。
「そんな感じ?なってないよ。そんな感じってなんだそりゃ」
これ以上突っ込まないでくれ、頼む。心の中の私が一生の半分ぐらいのお願いを使い果たした。さぁ、話をずらしにかかるか。
「離婚成立は、今月末ぐらいになりそうだなぁ」
「じゃぁ来月になったら、伊豆に旅行にでも行かない?」
来月はもう11月だ。少し肌寒い季節だな。
「俺、色々調べておくよ。秘宝館とか、行ってみたいんだよねぇ」
ニヤニヤと笑う横顔は、お酒のせいで少し赤らんでいた。よし、と言って私は立ち上がった。
「新しいキッチンで、ブラッディメアリー作るぞぉぉ」
段ボールから出した透明のグラスに、コンビニで買ってきた氷を入れ、ウォッカ、トマトジュースを入れ、これまた段ボールから取り出したマドラーでかき混ぜる。たちまち血の様な赤い飲み物が出来上がる。
「トマトジュースが嫌いなんて人は、この世から消え去ればいい」
「俺は嫌いだけど」
ごくり、とひと口飲んで「ごめん」と呟いた。2人視線を合わせ、顔を緩めた。少しだけ、心から笑った。
「順調に離婚が成立して、時々見せるミキちゃんの寂しそうな顔が消えるように、俺は頑張る」
嬉しくて、目が潤む。
「何を頑張るの?」
意地悪く訊き返す。
「何をって、んーと、そうだな、笑わせる。ずっと、ひっきりなしに笑ってられる様にする」
「アンタは芸人かっ」
それでもハルさんの言葉は私にとって十分な説得力を持ち、彼になら出来るんじゃないかと思わせてくれた。
その後、ブラッディメアリーを飲み続けた私は、またもや記憶を飛ばし、しかしハルさんと一戦交えた形跡はなかった。
その代り、翌朝、新居のシンクには真っ赤な吐瀉物がへばり付き、自分の髪からもその欠片が臭った。
「何だ、何があったんだ――」
「昨日ミキちゃん、飲み過ぎて吐いて、しかも寝ゲロまでしちゃって、俺タオル探したりするの大変だったんだよ」
うわー、自分に惚れている男に寝ゲロの処理させちゃったよオイ。二日酔いで、未だに胃液が重力に逆らって遡上しようとする。
「あぁホントごめん。ホントごめん。とりあえずシャワー浴びたい」
とんだわがまま娘だ。私がシャワーを浴びている間、シンクにあった吐瀉物を、ハルさんが綺麗に流してくれていた。
私は髪にこびりついた吐瀉物が排水溝に吸い込まれている様を見ながら、「酒は飲んでも飲まれるな」の教訓を思い出していた。
シャワーを浴びて、新しい部屋着に着替えてベンチに座った。「気持ち悪っ」とか言いながら、ハルさんが入れてくれた水道水を少しずつ飲んだ。
「私、こんな人だよ、いいの?」
「いいじゃん、人間らしくて。もうゲロも見ちゃったし。あとはウンコ見たら結婚だな」
アハハーと笑うハルさんを見て、私もぷっと吹き出した。
「まぁ酒は程々にって事で、これからは俺もそこそこの所で止めに入るからさ。俺以外の男の前で、そんな風にならないでね」
太一君の顔が頭を掠めた。もう、思い出。終わりがあるから思い出になる。
「はい、気を付けます」
時すでに遅し、ってやつ?こいつ記憶飛ばした挙句にムラムラしてヤっちゃってますよー。
という心の声は黙殺した。