31 黒い星-1
12月に入った。ロンドンに行くまであと1ヶ月となり、タキとは頻繁に連絡を取り合い、現地にいる4日間をいかに有意義に過ごすか、話し合っている。
そんな中、太一君がまた東京に来るという。今度は私がおすすめのお店に連れて行ってくれと言われたので、会社の人に教えてもらったカレー屋さんに行く事にした。前回と同様、友達に車を借りて迎えに来てくれた。
私は昼間、バンドのスタジオリハがあったので一度楽器を置きに家に戻り、夕方に待ち合わせて出かけた。将太は仕事で不在だった。
「江の島に向かってください」
「江の島ね、今ナビ設定するから」
慣れない手つきで、「俺の車のナビと違うからなぁ」と呟きながら、灯台マークがついた江の島にルート設定をして出発した。
「江の島の手前にあるんだけどね、親睦会旅行の時に寄ったんだ。私カレー嫌いなんだけど、その店のカレーは、私のカレーの概念を覆すほど美味しかったんだ」
「凄い壮大な話だけど、結局はカレー屋さんなんだよね」
「ふん、そんな風に軽く考えていては罰が当たるぜ、太一君よぅ」
江の島へ向かう海沿いの道路を右折し、住宅街へ入る。坂を上り切ったところにそのお店がある。夕飯には少し早い時間ではあるが、3組の客が外で待っていた。その後ろに並んで順番を待つ。
「寒いね、海風が上がってくる」
「俺、新潟の内陸に住んでるから、海の匂いがするのって新鮮でいいなぁ」
と言って深呼吸をする。私も寒さに腕を抱えながらスーッと深呼吸をしてみた。本当だ、海の匂いがする。
「ねぇ、お勧めのカレーは何?」
「お勧めは店員に訊いてくれ」
「あ、冷たいのね」
「待ってる間に心も体もすっかり冷えちゃったんだよ」
そう言って顔を見合わせて。勿論、太一君は冬場でもひまわりのような笑顔で笑っている。ひまわりの様に、背が高い。降り注がれるような笑顔が、今の私には眩し過ぎる。
店内に案内され、私は海老のカレーを、太一君は店員さんにお勧めを聞いて、キーマカレーを注文した。
「海の近くなんだから、海の幸のカレーを頼むべきだと思うよ」
「何だ、先にそう言ってよぉ」
太一君は口を尖らせたが、目は笑っていた。
正月にロンドンに行く話をすると、「俺も行ってみたいんだよ」と食いついてきた。
よくよく話を聞いてみると、私が高校時代にはまっていたバンドに、彼もはまっていたらしい。そのバンドが頻繁にロンドンでレコーディングしていたのを知り、ロンドンに憧れを抱いているらしい。
太一君の笑顔と私の笑顔は正反対だけど、色んな趣向が似通ってるんだな、と思って更に「いいな」と思った。
食後、江の島に向かおうと車に乗ったと同時に、雨がフロントガラスに落ちる音がした。徐々に音は増していく。
「傘、持ってる?」
「ない、ミキちゃんは?」
「なーい」
天気予報なんて当てにならないなぁとぼやきながら太一君は後部座席に顔を突っ込んで左右に目をやり「あ、1本あった」と言った。
江の島にはすぐ到着した。適当な路肩に車を停めた。雨脚は少し強まっていた。後部座席にあった傘を私に差出し、太一君は丸腰で車を降りた。私は渡された傘をさして車を降り、すぐに太一君を傘の下に招き入れようとした。しかしそそれをかわされた。
「あ、俺はほら、いいよ。一応あの、人妻だし、相合傘みたいのは、ねぇ」
暗がりでも分かるぐらいに顔を耳まで赤くし、相当しどろもどろになっていて滑稽だった。
「いいよ、風邪ひくし。相合傘なんて中高生でもやってるって。大丈夫。誰も見てないし。」
そう?と遠慮気味に傘の下に入った。「肩濡れちゃうよ」と言って、少し近づくと、身体を固くしたのが伝わった。
人妻と言われて、何だか実感が湧かなかった。左手の薬指につけた指輪は確かに結婚指輪ではあるけれど、サイパンの小さなチャペルで「2人を死が分かつまで」なんて宣誓もあったけれど、死が分かつまで2人そっぽ向いて過ごすのか。私はそんな事は望んではいない。でも、何を望んでいるんだろう。
今の、好き勝手に過ごすこの時間に何ら不満はないのだ。だから将太に文句のつけようがない。そんな事を考えているうちに、「結婚」という物の意味が益々分からなくなってくる。
ロープウェイが営業していなかったので、頂上まで登る事を諦めた。雨が降っている事もあり、人は殆どいなかったし、すっかり暗くなってしまったので、すぐに山を下りた。車に戻る頃には雨が上がった。傘は車に仕舞った。