26 ギブス-2
「明日、東京の友達のとこに遊びに行く」
パソコンを見ながらマウスをせわしなく動かしている将太は画面を見たままで「東京のどこ?」と訊いてきた。
「高円寺」
「ふーん。あの辺、いい雑貨屋さんが多そうだよな」
カチカチ、クリックの音が家に響く。これ以上の会話は無い。たまに日付が変わる前に将太が帰宅しても、これといって会話が無いのだ。家で笑わなくなったな――そんな事を思いながらシャワーを浴びて、雑誌を見ながら買ってあったアイスキャンディを食べ、歯を磨いて寝た。
新宿で中央線に乗り換え、高円寺に着いた。
『駅に着きました』
『迎えに行くので、北口で待っててください。メッツがある方ね』
北口のメッツの壁に寄り掛かりながらサトルさんを待った。暑い。さっきまで耳にしていたイヤフォンを鞄に仕舞うと、蝉の声が耳を支配する。日が当たるアスファルトからは陽炎が見える。きっとサトルさんの部屋はエアコンがガンガンだ。自称「地球にやさしい男」はエアコンに頼りきっていた筈だ。
見た事のある姿の男性が、こちらへ歩いてくるのが見えた。白地に何かがプリントされているTシャツ、いつか見たマドラスチェックのショートパンツ、黒い短髪。線の細い身体。そこに乗る小さな頭。
手を振ったら、振りかえしてくれた。サトルさんだ。私も走り寄った。
「暑いね。そんなに遠くないんだ、家まで。行こう」
「うん」と頷いて、歩くサトルさんの後を追った。
私、うまく笑えてるかな。
駅から徒歩数分、古びたマンションの6階。そこにサトルさんの新居があった。タイル張りの壁面はところどころタイルが落ちている。エレベーターに乗るとロープがギシギシと音を放ち、振動する度に恐ろしい。
金属音がギィと響く玄関ドアを入ると、フローリングの部屋が2間続き、右手に和室がある。和室の窓からは風がスーッと入ってくるのが分かった。確かに1人で住むには広い部屋だ。大きな家具は無く、パソコン用の大きめのデスクと、ちゃぶ台があるぐらいだ。
「エアコンないんだ。風は多分通ると思うから」
開け放った窓からは、申し訳程度に風が入ってくる。玄関を閉めてしまうと、風の通りが悪くなるようだ。周りは住宅街で、高い木も崖もないので、蝉の声は随分下から聞こえてくる。
「ずいぶんエコな部屋になったねぇ」
「そうだろ、前の俺じゃ考えられない。開けた窓に腰掛けて吸う煙草がうまいんだ」
ちゃぶ台の所に座るよう促されて、そこに座った。サトルさんは早くも1本目の煙草に火をつける。
「風上で吸うのもアレですから」
そう言って、パソコンデスクに腰掛けて煙草を吸い始めた。
「その指輪は、もしかして例の彼から?」
サトルさんの中で、私の時は止まっている。恐らく、ユウの事を言っているのだろう。
「例の彼とはもう、入社前に別れたんだ。これは今の旦那から」
煙草から口を離し、口を開けたままサトルさんの動きが止まった。
「――旦那?」
ちゃぶ台に目線を落として頷いた。
「そう。結婚したんだ」
「マジで?何でいきなり?
「惰性」
「――ミキ嬢、変わってないね」
と言って表情を緩めた。
「そうか、旦那かぁ。ショックだなぁ。俺、何か凄くショック」
「それ、職場の人にも言われたからもういいよ」
苦笑してサトルさんの顔を見ると、サトルさんは笑っていなかった。
「俺は本気で言ってるんだよ。ショックだって。ミキ嬢が結婚するなんて、俺はショックだよ」
何て返せば良いのか分からず困った。私はサトルさんの事が好きだった。いや、今も好きだ。だけどサトルさんの気持ちは最後までふわふわで分からなかった。今「ショックだ」と言われている事さえ、真意が分からない。いつまでたってもふわふわだ。