『欲』-1
マリモの様に、汚い水で構わないからただ水の中、浮かんで居たい。なにもしないで居られたら、どんなに長くて濃い幸福感を得られる事だろう。
本当に心から、そう思える夕暮れ。
頭が、痛い。首も痛いし、胸が苦しい。
こんな時に、何かしたいだなんて思える方が異常だ。
考えてみたら、足から血が出ている。
「ぶらっでぃ…。」
呟いた途端、トマトジュースを使ったカクテルが恋しくなった。
何故に此処に居て、何故夕日を見ているのか。全く思い出せない。大体、足が変に折れ曲がった形で座っている。自分の、おかしな足を冷静に見ている事が不思議だ。
人間は、何もせずには何も得られない。自分が人間だという確信すらないけど、本能がそう言っている。
とにかく一度立ち上がって、夕日の沈む方向とは反対の景色が見たい。何気無くついた右手にも、足同様に痛みが走る。
こんな苦痛だらけの身体をひきづって、背中側の景色を見たいなんて思っている自分は、本当に何者だろう。
なんとか身体を回す。広がる筈の景色と呼べる代物は、そこには無かった。夕日の反対側には、壁と、降りの階段というそっけない作り物が広がっていた。小さい屋上のような空間の隅で、自分を知らない自分は夕日に向かった形で座っていたのだ。
ほんの3m先には、夕日でオレンジ色に染められた壁が。壁の近くの隅に螺旋階段の一部分が見える。
何処だよ。
頭に手を伸ばす。長いとも短いともない、半端な長さの髪の毛に触れる。そのまま、くしゃくしゃと軽くかいた。
血が出ていて折れ曲がる足にも、頭を包む指輪をした手にも、視界にチラチラ入ってくる半端な長さの髪にも見覚えはない。
誰だよ。
まず、此処から降りてみよう。疑問の答えを探すには、この空間は狭すぎる。
身体の向きを変えるのでさえ大変だった事を、立ち上がる動作から生じた痛みで気づく。夕日は不思議と明るさを失わず、明るいオレンジ色の照明を壁と、自分を知らない自分に与え続けている。
螺旋階段へは、座りこんでいる場所から遠くない。這っていったとしても、さほど苦痛な事ではないだろう。
痛みに耐えるだけ。
その点では今、座って佇んでいる状況と変わらない。
ほふくぜんしんは初めての経験だと思う。なんとなく。なんせ、漢字が浮かばない。
痛い。床に擦れる足が、たまらなく痛い。出血している事が、なんとなく分かる。前を見なくちゃ成らないから、顔を上げるけど進むたびに頭がガンガンする。もう、本当は動きたくなんかない。
やっと螺旋階段の降り口に着く。長い道のりと時間に感じても、未だに夕日はオレンジ色を保つ。きっとそんなには時間は経っていないのだろう。
螺旋階段の降り口から、下を覗く。あんまり高いと、ほふくぜんしんで降りるのは無理がある。怖いから。
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螺旋階段は、途中で途切れていた。
自分を知らない自分は、自身を思い出す術を無くした。
まだ何か自分に残されているとしたなら、時間だけだろうと思う。マリモの日々が、自分を知らない自分に訪れた。