8 バクチ-2
10分も経たずに、家の前に聞きなれた車のエンジン音がした。夏のわずかな風も逃さぬように開け放っていた部屋の窓を、全部締めて回り、携帯だけを手に外へ出た。
ユウは車から出ようとしなかった。私が車の前に立っていると、助手席のドアが開いた。この車はタクシーか。
「こんばんは」
ユウから声を発した。いつものユウの声だった。
「こんばんは。用件は?」
極めて事務的な声で質問した。ひぐらしが鳴いている。
「俺ん家行って、話したいんだけど」
「それ、行くだけの価値がある話なんですか」
「俺にとっては」
「俺様だな、全く」
そう言って助手席に乗り込んだ。居心地の悪い助手席。
車中は沈黙が流れ、スピーカーから流れる音楽がその沈黙から救ってくれていた。私は車窓から外を眺めていた。
冷静に対処するんだ、そう思う反面、心の中はざわざわと五月蠅い音を立てていた。
ユウのお母さんに「こんばんは」と挨拶をして、部屋のある2階へ上った。いつもならベッドに腰掛ける所だが、今日は床に座った。
「はい、用件どうぞ」
「酷く冷たいねぇ」
「夏仕様です。涼んでよ」
ユウはコンポにCDをセットして音楽を掛けた。この部屋に何度来ただろう。もう二度と来ることはないと思っていた、ユウの部屋。ベランダで吸う煙草の匂いは、部屋にも染み込んでいる。
ユウはベッドに腰掛けた。丁度私の真後ろだ。すると突然、後ろから頬に触れられた。大きな掌は熱を持ち、冷え切った私の皮膚に熱を与える。髪にキスをされた。咄嗟に頭を避けた。掌は離れない。
「何してんの、アンタ。酷暑でおかしくなったのか」
「やっぱミキのそのツンツンな感じが好きなんだよ」
そう言って、頬にあった手のひらを、Tシャツの中に入れてきた。
「やめて、生理だから。それに、する気もない。彼女はどうした?」
「別れた」
ユウの低い声が、更に低くなった。
「なんで?」
「わかんない」
Tシャツから手を抜き、肩に手を置いた。肩からユウの熱が入り込む。この人の掌は、大きく、熱い。
「お前の事が忘れられなくて、お前の話ばっかりしてたら、振られた」
――おおぉっと、意外な展開だ。
動揺した。動揺を悟られまいと、ユウの顔は絶対に、見ない。ユウの起こした大波に揺られていきそうだ。テトラポットから手を放すんじゃないぞ、自分。
「そ、それは残念だったね。生憎、私は好きな人がいる。時すでに遅し、ってやつだ」
ま、好きだけど、一方的に好きなだけ。
「田口か」
「ちがーう、断じて違う。ユウの知らない男の人だよ」
そう、ユウよりも数段大人で、落ち着いていて――ふわふわで、何を考えているのか読めない人。
「付き合ってるの?その人と」
「付き合ってないよ。一方的に好きなの」
カーペットの毛羽立ちを撫でた。撫でた部分だけが色を濃くした。夏にカーペットって、暑くないのかな。そんな事を考える。
一方的に好きな、連絡もくれない人と、好きだと言ってくれる、かつての人。
横並びに並べられない。どうしたらいいんだろう。
「俺はいろいろ考えた結果、お前の事がやっぱりこの世で1番好きだと思ったの。代わりはいないの。お前はもう、俺の事は嫌いなの?」
「――嫌いじゃない、よ」
嫌いじゃない。嫌いな訳ないじゃないか。何処にいても、ユウの事が頭をよぎってしまって困っていたぐらいだ。桜と共に散ってしまえと思っていたのに、散らずにドライフラワーのように固定してしまったんだ。嫌いな訳がない。忘れようとしても、忘れられずにいるんだから。振り払おうとしても、まとわりついてくるのはアンタでしょうが。
やっぱり、ユウの事が好きなんだ。顔を見て、声を聞いて、触れられてしまうと、それまで頑なに頭から排除しようとしていた存在を、自分の手元に引き戻したくなる。肩に置かれた手の上に、私の右手を重ねた。
「ユウの事は好きだよ。忘れられなかったよ。でも私はいまだに門限を守る堅い子だし、普通の女子みたいに小奇麗にしてないし、何より他にも好きな人がいる」
そこが問題だった。好きな人が他にもいるのだ。それがなければ、大手広げて、股まで広げて大歓迎だったかもしれない。
「他に好きな人がいてもいい。今迄のミキでいい。俺の事好きならそれでいい。だからまた、俺の傍にいてよ。彼女になってよ」
返答に困った。目を瞑った。ユウを選んだら、サトルさんへの思いは消えるのだろうか。消えなかったら――いや、ユウを選ぶのなら、サトルさんへの恋心は消さなければ。二股をかけるなんて、とんでもない。もともと、叶うはずのない恋だった筈。何より、肩に置かれたユウの手から伝わる熱が、私の旺盛な欲望を刺激してしまっていた。あぁ、何たるビッチ。
握った右手に力を込めた。
「今度裏切ったら、殺すよ」
「裏切ったらって何?」
「私を怒らせたらぶっ殺すって事だ」
後ろを振り向きユウに抱き付いた。そのままベッドに倒れこんで、半年ぶりに抱かれた。
生理だなんて、嘘だった。