6 本塁打-5
ごみ収集車の陽気で単調な音楽が聞こえた。この辺りは土曜日でもごみ収集があるのか。
目を開けた。目の前に、サトルさんの顔があった。近い。こんな間近で見たことが無かった。ラフに整えられた眉。筋の通った綺麗な鼻。密度の濃い、短い睫毛。薄い唇。耳にはピアスの穴が開いていた。暫く見惚れていた。
目を閉じたままのサトルさんの腕がいきなり私の背中に回り、ギュッと抱き寄せられた。
驚いて、声も出なかった。
「ちょっと、こうしてて」
耳元で、サトルさんが囁く。私は返事が出来ない。心臓の鼓動がサトルさんに伝わってしまいそうなぐらい、密着していた。動けなかった。空気を吸う事さえ、躊躇われた。
「ハグ、してくんないかな」
そう言われた。ハグって言われても――。外国人が「ハロー」と言いながら抱き合って頬を寄せ合うあれ?頭の中で思い描いた。ギャグにしかならない絵面だ。
自分の左腕を、サトルさんの背中にぐっと回し、抱き付き返した。今まで気づかなかった、煙草の匂いがした。ユウと同じ煙草。でも、ユウとは少し違う。これはサトルさんの匂い。それが心地よいと感じている。
サトルさんは、私の肩の辺りにあった顔を目の前にずらし、額と額を付けた。一呼吸置き、そして唇を重ねた。優しいキスだった。
私を抱いたまま、サトルさんは私の上に膝立ちで重なり、再び抱きしめてキスをした。唇から暖かい舌が入り込み、踊る。心地よさに思わず吐息が漏れる。長い長いキス。煙草の匂い。
「歯、磨いてな――っん――」
私の、やけに冷静な呟きをキスで静止した。
そして耳へ、額へ、首筋へ、サトルさんの唇は移動し、再び私の唇に重なった。舌と舌が絡み合い、吸われ、吸いついた。下腹部に、サトルさんのモノが当たる感覚がある。
「俺、インポ治ったかも」
「世の中では『朝勃ち』って、言うんじゃなかったっけ」
「いや、これは列記とした勃起だよ」
「あら、嬉しい」
昨晩と同じ天井から電気のコードが垂れている。だけど昨日より少し大きめの円を描きながら、そのコードは揺れていた。
サトルさんは近くにあったリモコンで冷房を入れた。
暫く抱き合っていたけれど、サトルさんはそれ以上踏み込んでこなかった。私も、それ以上踏み込まれなくて良かった。人に見せられる下着を履いていなかった事が大きな理由だ。あぁこんな時、女らしく小奇麗なレイちゃんやシノちゃんだったら、綺麗な下着をさっさと脱いで、最後までしちゃうんだろうな。
思っていた以上に起床時刻が遅かったらしく、サトルさんは午後からの仕事の支度を始めた。
私はこれと言って支度する事も無く、いそいそと動き回るサトルさんを部屋の隅から正座をして眺めていた。
私は、サトルさんの何なんだろうか。何になったんだろうか。そんな事を聞いてもいいんだろうか。私はサトルさんの何になったら満足なんだろうか。
これまでの私的恋愛常識(って何だ)に照らし合わせれば、この状況はもう「お付き合いに入りました」という事になる。が、価値観なんて人それぞれ。
支度を終えたサトルさんは私が座っている目の前に、同じように正座をしたそしてまた、私を抱き寄せた。頭を撫でられた。左耳からサトルさんの囁く声が侵入する。
「本当は最後まで、したかったんだよ」
「うん」
「また、来てくれるかい?」
「呼ばれれば飛んで参ります」
そして再び、少し長い口づけをして、立ちあがった。
「んじゃ、行きますか」
敷きっぱなしの布団をそのままに、駅へ向かった。
駅までの道程で会話した内容は殆ど覚えていない。上の空もいいところだった。
「じゃ、またメールするよ」
いつもの別れ方をして電車に乗った。
まだ、夢の中にいるような気分だった。ついさっきまで、サトルさんの唇が重ねられていた部分に、指を這わせる。あのキスに、どういう意図があったんだろう。
意図なんてあったんだろうか。単純に「男はオオカミ」理論なんだろうか。私の様な女に、サトルさんが惹かれる訳がない。とすると、なんぞや、セックスフレンドにでもなるつもりか。そんな悪い人なんだろうか。セックスフレンドは悪い関係なんだろうか。サトルさんのセックスフレンド、上等じゃないか。
考える事は山ほどあるのに、答えが1つも出てこない。気付いたら、「ただいま」も言わずに部屋に戻っていた。「ただいまぐらい言いなさい」と母に怒鳴られた。