不幸せをありがとう-1
Prolouge
幸せをあげよう。
それは誰の言葉だったのか。
朦朧とする意識のなか、僕はもう一度目を開けた。
もう戻ることは出来ないと思っていた、この世界。それなのに目を開けることが出来たのは、一体なぜなのだろう。残された時間は、そう長くは無いことは分かっているけれど。
もう一度彼女の顔を見れるのは、とてもうれしいことだ。
「透、とおるぅ・・。」
彼女は泣いている。僕の手を握りながら泣いている。彼女にこんな顔をさせたまま、僕は逝くところだったのか。
「あぁ、奇跡だ。もう駄目だと思ったけれど、もう一度君に会えた。」
かすれた声を響かせて。
「泣かないでよ。こうしてまた会えたんだ。奇跡は続くのかもしれない。」
最後の力を振り絞って。
「だからきっと、また会えるさ。いつか、きっと会える。」
僕は、そう言った。
彼女は僕を抱きしめた。それを抱き返す力は、とうに無い。あぁ、僕は幸せだ。こんな暖かさに抱かれて、こんな香りに包まれて、僕は幸せだ。生き長らえたのは、ほんの数分。けれどそれは僕にすべてをもたらした。彼女の泣き声は、もう聞こえない。だから僕は満足だ。
――― ありがとう
それは誰に向けて?
分からない。けれど言わなきゃ。
――― 幸せをありがとう
そして僕は、目を閉じた。
その男の最後は、笑顔だった。女性も何かを納得しているように見えた。ならば僕が与えたものは、少しは意味があったのだろうか。僕は眩暈に襲われて、病院の廊下にあるベンチに腰を下ろした。心臓がじくじくと痛い。何とも言えない圧迫感。ふと思う。僕は一体、あとどれだけ生きられるのだろう。そしてその間に、どれほどの願いを聞き入れてしまうのだろう。結論は冴えず、目を閉じる。
願いなど無視すれば良い。
自分の幸せだけを追い求めれば良い。
それは分かっているけれど。
僕は眩暈を無理矢理封じて、立ち上がった。
もうこれで終わりにしよう。人の望みは、自身を壊すだけ。利益など何も無い。
胸のうちで呟きながら、その病院を後にした。
傍らにいた女は思った。透には本当に、またいつか会えるのかもしれない。一度医師に死亡宣告を受けてから、再度彼が目を開けることが出来たのは奇跡。もう、彼は死んでしまったけれど。またいつか会えるのかもしれない。そんな奇跡をも信じてみようと、そう思った。