小さな海の還るところ-1
俺の手には傷がある。あの日彼女のガラスがばらばらと音を立てて俺に降り注いだのだ。俺の手には傷がある。
絵は好きだ。描くのが好きだった。白い紙の上に俺だけのモノを閉じ込める。俺はあの日もただキャンパスに空を閉じ込めていた。永遠にきえることのない飛行機雲を描いていた。
壊れかけて、ヒビのはいったガラス玉で俺は空ばかり眺めて絵を描いた。
絵が好きなんですか?
その日俺の後ろで歌うような声で誰かが尋ねた。
俺が返事をする代わりにちらりと後ろを振り向く。少女が微笑みながら静かに佇んでいた。
この時、後ろを振り向かなければ、俺は今だ絵を描き続けていたのかもしれない。
そう、今も、まだ。
だが、重なりあい、動きだしていた歯車を俺に止められるはずがない。しかしもう歯車は錆付き動く事をやめてしまった。
なのに、あの錆び付いた歯車たちの一つには彼女の漆黒の髪の毛が、未だ、揺れている。
じゃあ、影を描いてください。
空を閉じ込め続けていた俺を何度か尋ねてくるようになった彼女が無邪気にそう言ったのはとろとろと微睡むような午後の日だった。俺もまた微睡み夢見ていたのかもしれない。
あの日彼女はそれは楽しそうに俺の隣りでシャボン玉を造り、ぷかぷかと空に浮かべていた。
彼女の漆黒の髪の毛が風に流されて、触手の様にシャボン玉に触れるとシャボン玉は音もなく割れていた
影…何の?
俺は重たくなっていく身体を感じながら彼女を見た
こちらを見た彼女の表情は逆光で闇に飲まれていた。
私のです。
彼女の顔は闇に飲まれたままだった。静かな声には少しだけ笑いが含まれていた。
いいよ。
俺は空を見上げながら誰とにもなくそう呟いた。俺の視界の隅にシャボン玉が映り、パンッ…と弾けていた。
シャボン玉ははかなさの象徴。
その日から俺は彼女の影を描いた。夜は絵に閉じ込めた彼女の影に月の光を落としながら。夜に染められていく昼の残光を見つめ、夕闇に身体を漂わせながら。
俺は描いた。何も考えたくはなかった。
ある午後、俺は彼女を絵の中に閉じ込め終えた。絵の片隅に俺の烙印を残し、彼女を鎖で繋いでしまう。立ち上がった俺はにやりと笑っていた。
?。どうしたのだろう?突然俺の視界がぐにゃりと歪んだ。頬には何か温かいモノが伝っている。それは顔を伝って床に落ち、やがて小さな海を創っていた。
俺はそこに舟を浮かべ、彼女に会いに行く。でもその前に、この浮き舟の上でこの海を彼女の絵に描いて、閉じ込めておこう。そうしたら、彼女に気持ちは伝わるだろう?
浮き舟の上の俺はにっこりと微笑んで、膝の上に載せていたスケッチブックを開いた。
ほら、もう何も悲しくない。
俺はいつものところで空を閉じ込めていた。空にはどんよりと不機嫌そうに漂う雲が何処までも続いている。俺の手元には白い布が掛けられたもう一つの絵。彼女の影を描いた絵。
描いて来てくれたんだね。
その声に俺はちらりと振り向いた。いつもの彼女。
少しだけ微笑した彼女。
ああ。
俺は再びキャンバスに向かい、空を閉じ込めはじめる。
見てもいい?
いいよ。君のものだし。
俺は手を夢中で動かし続ける。頭の中が焼けるように痛い。