孤独なウロボロスについての記述。-2
……若い頃の夢を見ていた事に、年老いた王は気がついた。
夢の中では、自分は、『彼』になっていた。そんな事はありえなく、ただの夢のはずなのに、なぜか本当にあの時の『彼』の気持ちが、わかった気がした。
老齢の身体はどんより重く、死期が迫っている事がはっきり解る。
だが、恐ろしくは無い。
生まれつき病弱で、二十歳まで生きられるかどうかという医者の見立てだったのに、孫の顔まで見れた。
王位の後継者もきちんと定めたし、すべき事は済ませた。
あとはたった一つ……『彼』に会うだけだ。
部屋の中は静まり返っている。
付き添いの医者や親族に、わがままを言って部屋から出て行ってもらった。
だって、他の人がいたら、『彼』はこないだろうから。
「……ヘルマン。やっぱり来てくれたね。」
いつのまにか、寝台の傍らに静かに立っていた青年に、王は声をかける。
漆黒の髪と紺碧だった瞳は、濃いグレーの髪と氷河のようなアイスブルーの瞳に変わっている。
けれど、その他は若い青年のまま、彼の身体は時を留めていた。
「兄上に、きちんとお別れを言うのが礼儀かと思いましてね。」
にこやかな笑顔で、彼は言う。
自分は別れの言葉も言わずに、黙って姿を消したくせに!
十数年も経ってからひょっこり現れるまで、何回、彼を懐かしんで泣いた事か!
……悔しいから、絶対に言いはしないけど。
「息子に“手紙”の事を話したよ。きっと、あの子にも届く日が来るから。」
それを聞くと、彼は形のいい眉をひそめた。
「図々しい。郵便配達の真似事も、これでやっと終りのはずです。」
「僕が死んだって、ウロボロスは、この国の守護神でいてくれるはずさ。全ての”書物”にかけて誓ってもいい。」
すっかり少年の口調に戻り、老王は横たわったまま、愉快そうにヘルマンを見上げた。
「……。」
彼はさらに眉をひそめ、プイと横を向く。とてもとても、悔しそうに。
「守護神などいませんよ。王をそそのかし、大陸諸国を荒らしまわって金をまきあげさせた、悪党がいただけです。」
「でも、その悪党がいなかったら、わずかな鉱山と畑さえ、他の国に奪い取られ、とっくに民は飢え死にしていたよ。何度も、攻め込まれる寸前で、あの手紙が国の危機を救った。」
「……。」
「それもまた『事実』じゃないかな。」
「あの手紙を書いた悪党は、この国が栄えようと滅びようと、どうだっていいのです。神も人間も……誰も必要とせず愛さない男でしてね。」
「うん。」
「ただ、貴方に借りがある。それだけだと、申しておりました。」
「うん……。」
「……まぁ、伝えておきますよ。貴方がこの国の存続を望んでいて、少しばかり手を借りたがっている、と。」
「ありがとう。」
「手紙が届くかどうかは、保証できませんよ。」
ヘルマンが肩をすくめた。
「届くさ、絶対ね。」
「大した自信です。」
「……ハハ。」
もう、しゃべるのも大変だったけれど、なんとか笑ってみせた。
手紙は、届くに決まっている。
自分で気づいていないんだろうけど、彼の冷静で冷酷な心の奥底には、ちゃんと感情が息づいてるから。
(君はあの夜、僕に心底腹を立てた。そうだろ?君は悔しかったんだ!初めて僕に心を揺さぶられて、負けたんだから!)
あの夜……フリッツを見た彼の瞳は、氷の奥底で燃え続ける、青く激しい炎のようだった。
何でもできる彼を、今でもとても尊敬しているし、憧れている。
けれど自分達は、王位こそ奪い合わなかったけど、生まれた瞬間からライバルだった。
もっと仲良く共に歩める道もあったかもしれないけれど、結局はこんな奇妙な形で、生涯を着かず離れずですごした。
――まぁ、これはこれで、悪くなかった。
ともあれ、最後の最後で、もう一度、彼の心の琴線を、もう一度ゆさぶってやったんだから!
「……。」
心残りはもう何もなくなったから、安心して眼を瞑る。
そして心の中で、祈った。
神から見放された不毛の地で生まれ、神と全ての人間を見放した、この孤独な美しいウロボロスの為に。
神ではなく、彼を支えひと時の安らぎを与えていた書物たちに、祈った。
――どうぞいつの日か、彼が『せいぜいカッコつけて』誰かをダンスに誘えますように。
閉じた瞼の上に、ヒヤリと冷たい手が、そっと置かれた。
「おやすみなさい……フリッツ。」