18年分の悪意。についての記述。-2
不思議な発音の呪文が、低い声で詠唱される。
「むぐ!ぐう!」
ぞわぞわと、四方八方から、何かが這いずりよってきた。
それは濃縮され凝固し、吐き気を催す臭気をまとった悪意の闇だった。
囁かれる侮蔑の言葉。突き刺さる冷たい視線。
もがいてもあがいても、底知れぬ奈落の闇に落ちていく。真っ暗で、どこにも灯りはない。
ひたすら続く絶望になぶられ、もがく気力さえも剥ぎ取られる。
怖くてたまらない。足を置く場所さえ、おぼつかない。
どこにも逃げ場はない。
なにも、ない。
だれも、いない。
ただ、絶望する。
(助けてくれ!助けてくれ!!)
必死で闇に叫ぶが、返事は無い。
なぜこんな所にいるのか、どうしてこうなったのかも思い出せない。
ただひたすら怖い。世界の全てが恐ろしい。
こわいこわいこわいこわいかなしいかなしいかなしいつらいつらいつらいつらいたすけてたすけてたすけて!!!!
無我夢中で闇を這いずるうちに、ふと銀色にかすかな人影が見えた。
白銀の髪を持つ女だった。異国の衣に身を包み、黒い鞘の刀を手にした、とても美しい女だった。
(あ……う……ああ……)
彼女を覚えている。
あれは、カダムがまだ宮廷に上がったばかりの、若い文官だった頃。
東の島へ、貿易の交渉のために赴いた時だ。
絶世の美女と名高い東の女王より、その脇で警護に付き添っていた一人の女将軍に、目を奪われた。
気高い獣を思わせる、強い生命力に満ちた瞳に、夢中になった。
そして、使者をもてなす余興の御前試合で、彼女の戦う姿を見て、あの美しい女性の姿をした獣を、どんな手段を使っても手に入れようと、決意した。
今まで、溢れんばかりの金を注いでチヤホヤしてやれば、落せない女はいなかった。
貢物の金額という、わかりやすい数字で自分への評価を示されれば、誰でも有頂天になるはずだった。
だがあの女は、一切を拒否し、軽蔑の眼でカダムを見た。
しかも、それだけではなかった。
船団が東の国を離れる時、港に現れた彼女は、そのまま船に飛び込んで、東の文化を学ぶために同行していた建築技師の青年に、抱きついたのだ。
その男は優秀な建築技師ではあったが、カダムよりもはるかに身分の低い平民だった。
そいつと寄り添うために、彼女は女王の護衛官長という座を捨てたのだと、そのすぐ後で知った。
ーー殺すだけでは飽き足らないほどの憎悪が、芽生えた。
しかし、サーフィは一途で無謀なだけの女ではなかった。
彼女は、東の国からの親善大使という身分を手に入れ、しかも持参した封書は、東の女王がシシリーナ国王に宛てた、二人の結婚を祝福してくれという手紙だったのだ。
お人よしの国王は、勿論その通りにしてやり、カダムは妨害すらする事が出来なくなった。
くすぶった殺意の炎は、より一層ドス黒く根深い憎しみになった。
――サーフィ。いつか、必ずお前を手に入れてやる。
俺が、お前の世界の全てになるように、縛り付けてやる!!
(サー……フィ…………)
手を伸ばした途端、闇に浮かんでいた彼女の姿は掻き消えた。
後には、砕け散った赤い破片が残っているだけだった。
この石を付けていた少女を、カダムは知っている。
あの美しい女と、同じ顔をした……いつも寂しそうな瞳をして、カダムを見ると、ひきつった愛想笑いを浮かべていたホムンクルス。
鎖に繋がれて打ちひしがれ、命を繋ぐために、あの気高い誇りを捨てざるをえなかった、哀れな獣の成れの果て。
『貴方を愛しています。』
『貴方に愛されて幸せです。』
数え切れないほど、繰り返しそう言わせた。
それで満足していた。いや、満足していると思い込んだ。
言わせるたびに、余計に空しさが募っていくのを、認めたくなかった。
少女は彼女の模造品で、その言葉はオウムのように繰り返されていただけで、意味も心も込められていなかったのを、誰よりも自分が知っていた。
………………俺はいったい、何が欲しかった?
イスパニラ国からの突然の進軍、という緊急事態をしらせるために、一人の将軍が、国王カダムの寝室へと駆けつけた。
在りえない事態だった。
姫を王妃に娶っているとしても、あの危険な国には十分に注意を払っていたのだ。
大軍が動くなら、もっと早く知らせが届いているはずなのに……!
忽然と、まるで地から湧き出たかのように、シシリーナ王都へ迫ってきたのだ。
「失礼いたします。陛下!」
いくら呼びかけても返答がなかったので、非礼を承知で、将軍は扉をあけた。
「城壁からの伝達が参りました!イスパニラ軍が……」
そこで将軍は、異変に気づいた。
部屋は無人に見えたが、四柱式の寝台の隅で、何か小さな呻き声を上げている固まりがある。
よく見ると、敷布にくるまりうずくまっている、国王だった。
「陛……下……?」
異変は明らかだった。
威圧的だった国王は、幼児のように指をしゃぶり、涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになって震えている。
(とにかく医者を呼んでこよう……)
後退りした将軍の前で、国王はふらふら立ち上がった。
シーツを引き吊りながら、幽鬼のような足取りで歩き出す。
寝室には、大きな窓がいくつかあったが、その一つは開いたままで、夜風がカーテンをはためかせていた。
国王は首を奇妙にかしげて将軍を一度見ると、何も言わずに窓の外へ吸い込まれていった。
一瞬遅れて、肉と骨が潰れる音が聞こえ、それから警備兵の叫びこえが上がった。
将軍はよろめき、必死で廊下へと這いずり逃げた。
彼は臆病ではなかったが、あの暗い絶望の眼差しは、きっと生涯に渡って忘れられない。