孤独な少女についての記述-7
自宅に駆け込み、扉を乱暴に閉める。
押さえていた右手の下で、出血はすでに止まっていた。
鮮血色の氷が、傷口を覆っている。
……なぜだか、この姿を彼女に見せたくなかった。
扉にもたれるように、床に座り込んだ。
静まらない動揺と裏腹に、禁呪を受け入れた体は、いつものように冷静に身体を再生していく。
室内の温度が下がっていく。窓は白く凍りつき、水がめに氷が張る。
「は……」
吐き出す息は、瞬時に氷の粒になって顔に覆いつく。
――――寒くてたまらない。
いくら火を炊いて厚着をしても、自身の内側から滲む絶対零度の寒さは、決して和らぎはしない。
睫までも凍りつき、眼を閉じた。
(なぁ…ガキ。お前、死にたがってんだな……。)
眼を開けなくても、わかる。
長身の男が、哀れむような表情を浮べて、しゃがみこんだヘルマンを見おろしている。
厚い胸板には、心臓の正確な真上に、ペンナイフが深く突き立っているはずだ。
ヘルマンを眼の仇にしていた王妃が雇った、暗殺者だった。
生まれて初めて、ヘルマンが命を奪った相手だった。
彼に殺されそうになり、返り討ちにした。
あれは七歳だったか……六歳だったかもしれない。
(貴方は幻です。百年以上も前に死んで、もうとっくに塵になっている。)
(ああ。そうだな。)
幻は、あっさりみとめた。
(僕に、忘れさせないために出てくるのですか?)
(は?アホか。)
幻の男が、顔をくしゃっと歪めたのがわかる。
(てめーが他人の事をおもんばかるってかぁ?んなわけねーだろ。)
(貴方なぞ、心底どうでもいいですよ。)
(だろうな。てめーが勝手に、俺の臨終の言葉を忘れないだけさ。)
(僕が死にたがってると、言いましたね。)
(てめーの大好きな『事実』だよ。百歳超えのジジイになっても、変わりゃしねー。)
(自殺を図った事はありませんよ。)
(死んでもいいと思ってたから、てめーは俺に勝てたんだ。ったく、わざと自分の急所ギリギリを刺させて、反撃してくるなんてな。悪魔だって、もうちっとてめーの命を大事にするぜ。)
(……。)
(その身体になる禁呪を使った時も同じだ。なんでわざわざ、そんな高リスクを犯した?あの場を切り抜けるのに、他にも手はあったはずだ。)
(答える義務はありませんよ。)
(俺に勝ったのがきっかけで、命のやりとりのギャンブルにハマったなんて、言ってくれるなよ?てめーのイカれ具合は、生まれつきだ。)
もう一度、厳かささえ感じる声が、ヘルマンの髪に雪のように降り積もる。
(てめーはいつだって、死にたがってる。)
(……死ぬのはかまいませんが、自殺は御免です。全力を尽くしたうえで負けるなら、どんな卑怯な手を使われてもかまいませんがね。)
(そんで、いつも勝ち残っちまうんだよな。)
(ええ。生憎と。)
(そうやって、独りでずっと生きくんだ。可哀想にな。)
(負け犬に、なんと言われようと、どうでもいいですよ。)
頭上から、皮肉気なくっく…という笑い声が落ちた。
(そりゃそうだ。なんなら遠吠えついでに、なんでお前がサーフィにイライラするか、教えてやろうか。)
(幻の貴方が、知っているわけがないでしょう。全て、僕の妄想なんですから。)
(知ってるさ。血の鎖に縛られた、孤独な子ども……誰かを思い起こさせるじゃねーか。なぁ?独りぼっちだったボウや。)
(僕のほうが、彼女と傷を舐めあいたいとでも?)
(違うね。てめーは羨ましいのさ。)
(羨ましい?)
(歪んで曲がってひねくれた自分と比べて、彼女の強さが妬ましいんだろ。)
(バカな。)
(てめーの怪我を心配したって、あの子にゃ、何の得にもならねーのにな。)
(……。)
(なぁ。借りを作りっぱなしで、良いのか?ヘルマン。世の中はアレだろ、ほら。)
(……ギブ&テイク、ですよ。)
(そうだよ。とっとと借りを返しちまえ。優位に立てばいい。そうすりゃ、いつもみたいにスッキリ、どうでもよくなるさ。)
やがて、ヘルマンは立ち上がった。
瞳を開けたときには、幻の男は消えていた。
傷一つなく再生した左腕から、まだ残った氷の欠片を払い落とし、もう着られなくなってしまった白衣を脱ぐ。
「何か……お返しをしませんとね。」
小さく独り言を言った。
サーフィに、とんでもない借りをつくってしまった。
確かに、世の中はギブ&テイクだ。
あの幻が言うとおり、借りを作りっぱなしにする事はできない。
間違いなく、彼女が泣いてくれた事が……
何の得にもならないのに、ヘルマンの身を案じてくれたのが、嬉しかったのだから……。