忌まわしい記憶-2
「僕は乗り物が好きなんじゃないよ。素敵な女の子を隣に乗せて走るのが好きなんだ」
ひざに置かれた手をとって、両手で握る。男の手というのはどうしてこんなに骨ばっているのだろう。自分の華奢な手と比べて異質なところをつぶさに観察するように、エリナは岡田の手を飽きることなく眺めた。岡田は片手でのハンドル操作も危なげなく、混みあった街の道路をスムーズに走り抜けた。土曜日の昼間、家族連れの乗ったワゴン車があちこちに見える。窓ガラスにぺったりと貼りつくようにして、外の景色を見ようとする子供たちの様子が可愛らしい。
エリナは子供を欲しいと思ったことが無い。自分の分身がこの世に生を受けると考えただけで、身震いするようなおぞましさを感じる。それは理屈ではなく、本能に近い部分での忌避感のようなものだった。そういえば岡田は子供を欲しいと思ったことは無いのだろうか。ふいに思いついた疑問を口にすると、岡田はにやりと笑って答えた。
「なんだい? それは僕の子供を産んでくれるっていう遠回しなサイン?」
「ふふ、違うわ。単純な、言葉通りの疑問よ」
エリナが両手で弄んでいた岡田の指が、今度は逆にエリナの指を握り返す。それは予想以上に強い力で、離そうとしても離れない。まるで虫取り網に捕まった夏の蝶のような気持ちになる。決して逃れることのできない牢獄。
渋滞を抜けて高速道路の入口に滑り込む。重厚なボディに守られた車内にはかすかなエンジン音が響く程度。不自然な静寂の中で岡田がほんの一瞬、真剣なまなざしをエリナに向けた。銀縁の眼鏡の奥に光る、肉食獣のような鋭い目。
「今日は眠くない? ドライブをしながら、せっかくだから少し話を聞いてもらおうか。もし、面倒ならそう言ってくれてかまわない」
「いいわ。聞く」
降り出した雨がぽつりぽつりとフロントガラスを叩き始める。岡田は右車線に移り、アクセルを踏み込む。窓から見える景色が線になって流れていく。
「僕はちょうど30歳になった年、一度ある女性と結婚したことがある。まだ当時は大学を卒業した後に勤めていた企業で、ごく普通のサラリーマンをしていたんだ」
「そう……」
岡田は平日にはいまでもスーツを着ていることが多い。引き締まった体にそれはとてもよく似合ったし、ネクタイを緩めたときに見せる表情はエリナを欲情させた。ただ、会社勤めをする岡田というのは、うまくイメージできない。ひとつの会社に飼われるには、岡田はあまりにも精力的過ぎるように思えたし、なによりもその自由な雰囲気が損なわれてしまうのが残念に思える。
「高校時代から付き合っていたんだ。同い年だった。恥ずかしい話、僕はどうにも女性との出会いが少なかったのか、ほかに誰とも付き合うこともセックスすることも無いまま、彼女と結婚したんだ。特に意識していたわけじゃないんだけどね。だから、僕にとって女性というのは彼女がすべてだったし、彼女のことは本当に大切だった」
「恋人だったのね? たったひとりの」
「ああ、まあ、そうだね」
「恋人だった彼女とのセックスは良かった?」
何かを懐かしむような表情をしてから、岡田はゆっくりと頷いた。
「良かった、と思うよ。夢中だった。彼女をこの腕の中に抱いただけで、このまま死んでしまうんじゃないかと思うくらい興奮した。ただ、当時は他に比べる相手がいなかったからなあ……もう遠い記憶だ」