夫婦の言い分-1
「ただいま」
家に帰るのはいつも午前様。
「おかえりなさい。あなた」
それでも妻は寝ずに私の帰りを待っていてくれる。
にこりと微笑む妻は年老いていく私と違っていつまでも若々しい。
いつも清潔感があって、家にいる時ですら薄化粧をしている。
結婚して長い年月が経ったが、妻はいつまでも女のまま、美しい。それに比べて私はすっかりおじさんになってしまった。腹が徐々に出始めて、指は太く結婚指輪が食い込んできた。
「今日もだいぶ遅いお帰りでしたね」
私から背広とかばんを受け取り妻が言う。
「ああ。何だか知らないが、最近やけに人が増えてね。こっちもてんてこ舞いなんだ。悪いが当分この状況は続きそうだ」
うんざりする私に対し、妻は微笑みを崩さない。
「ええ、分かっていますわ。さっきニュースで言っていましたもの。1000人以上を超える飛行機事故があったと」
「は?事故?全く、そんな危ない物作るなんて人間はなんて愚かなのだ」
通りで今日は早回しに私のもとへ次々と人が送られてくるはずだ。
「人は便利さを求める生き物。たとえ誰が犠牲になろうとも、本人たちさえ良ければそれでいいのです」
聞けば聞くほどため息しか出てこない。
「それに、先ほどまた事件があったみたいですよ。明日からさらに忙しくなりそうですね」
妻は他人事のように笑う。
こっちは明日も下らない人生経験を聞かなくてはならないというのに。ノンキなものだ。
「頭が痛くなってきた。明日、仕事休もうかな」
「ふふ。あなたが仕事を休んでも仕事は待ってくれませんよ」
「まあ、そうなんだけど。言ってみたって罰は当たらないだろ?」
「あなた様のような地位がある方が誰からの罰をお受けになるのです?」
おかしそうに笑う妻。
「天の神様だろう?」
「誰からも恐れられるあなたがそんなこと言うなんて、明日の天気は大荒れですね」
そういうが、私よりも妻のほうがよっぽど恐ろしい。
普段は穏やかに笑っている妻だが、ひとたびスイッチが入ると妻は変わる。
妻の美しい顔いっぱいにしわがより、小さな瞳をカッと見開いて私を射抜く。
ニタリと笑う口元からは今まで聞いたこともないようなほど低い声。呟くように吐かれる言葉1つ1つに背筋が凍りつく。
その記憶がトラウマになり、私は妻に逆らうことができなくなった。
「そういえば今日の夕飯は何だ?」
夕飯というよりも夜食に近い時間だ。本当なら食べずに寝た方が健康にはいいのだが、一日中良く喋る人の話しを聞かされてくたくただった。いつもより早いペースで次から次へと私の元へやってくる彼ら。昼ご飯をゆっくり味わっている暇はなく、食べたらすぐに彼らの話しを聞きに仕事へ戻った。
空腹で頭がおかしくなりそうだった。
「ふふ。あなたにはたくさん精をつけてもらおうと思って」
嬉しそうに私をリビングに案内する。
「じゃじゃ〜ん」
リビングのドアを開くと、鉄板の上で焼かれている肉。ご飯はご丁寧に茶碗にてんこ盛り。部屋に充満する匂いに胸やけが起こる。
確かに空腹だが、12時過ぎてこの食事はヘビーだ。
肉の焼けるにおいに胃から何かがこみ上げてきた。思わず口元を押さえる私。
「どう?今日は焼き肉にしてみたのよ」
嬉しそうな妻。
「いや・・・どうって・・・この肉、まさかヒトベロじゃないだろうな?」
「だって、ヒトベロの方が安いんですもの。いいじゃない。昔は高級で手に入らなかったのよ?」
「でも流石に一カ月続けてヒトベロは・・・」
「文句言わないでよ。今はどこに行ってもヒトベロしかお肉の扱いがないのですもの」
少し膨れる妻。
確かにヒトベロはどこでも見かける食材となった。昔は手に入れるのも難しく、味こそない物の、その触感は噛めば噛むほど柔らかく最後にはなくなってしまう。
初めて食べた時は感動ものだった。
「じゃあ違うものを買えばいいだろう?何も売られているのはヒトベロだけじゃないんだし」
「ヒトベロが安く出回っている分、ほかの食材は高いのよ」
「だからって毎日ヒトベロは食べられない。もう飽きたんだよ」
「仕方ないじゃない。それしか売ってないのよ!」
妻がヒステリックに叫んだ。
「それにあなただって好きだって言ってたじゃない!」
「いや。そうだけど。たしかにヒトベロは好きだったよ!でも、もう飽きたんだ。少しくらい高くてもいいから別の物が食べたいんだよ」
「何よ!大体ヒトベロが出回ったのはあなたのせいじゃない!」
「俺のせいだって?冗談じゃない。俺はただ仕事をしただけだ!仕方ないだろう?そういう規則なんだ!俺だってしたくてしているわけじゃない!」
「だったら見逃せばいいじゃない!!」
「お前は俺に不正をしろというのか!?そんな事をしたら俺は仕事をクビになってしまうじゃないか!」
「じゃあ他にどうしろというの!?手に入らないものは仕方ないじゃない!!」
「だからって毎日これはひどいだろ!昨日今日だけじゃない!何百年も前からそうだ!」
私は焼ける肉を指差してそう言った。
言い返すかと思った妻がうつむいた。
「・・・」
「何か反論してくれよ」
「・・・」
「なあ」
そう声をかけたが反応はない。
顔を覗き込むと徐々にしわがよっていくのが見える。
しまった。熱くなるあまり地雷を踏んでしまった。しかしそう思った時にはもう遅かった。
ふっと妻が顔を上げた。
顔全体に寄ったしわ。いつもよりもしわは深く、憎しみがこもっているのがわかる。さっきまで穏やかだった瞳をかっぴらいて私を射抜く。口元は相変わらず笑っているが、頬まで裂け三日月型でニタリと笑う。
『お前の舌を抜いてやろうか?閻魔大王よ』
そう低い声で囁かれ、私の背筋は凍りついた。