E-8
「哲也君。今日も、お母さんに家に来るように訊いてくれる?お風呂沸かしたから」
「分かった!」
哲也は、林田にひとつお辞儀をして玄関口を後にした。
「ありがとうございます」
雛子は、林田に深々と頭を下げてお礼を言った。
「あの子にとっては、賭け替えのない思い出になります」
「そう思ってもらえたら、俺もやった甲斐があったってもんだ」
林田も、まんざらでもない顔をしている。
「これで、初対面の誤解は解けたかな?」
「謝りもしないのに、誤解なんて解けません!」
「あんたも結構しつこいな!」
「そっちこそ!それに、貴方にあんた呼ばわりされる謂われはありませんッ」
売り言葉に買い言葉。
咬み付いてくる雛子に、林田も負けじと言い返す。
「あれ……?」
それは、歪み合いがしばらく続いた後に、林田がぽつりと言った。
「おい、あれ?」
「何よ!話を逸らさないでよ」
「そうじゃなくて、後ろ見ろって」
「えっ?」
雛子が振り返ると、台所の方から、もうもうと立ち昇る湯煙が見えた。
「ああーーッ!お風呂が」
叫ぶが早いか、雛子は林田の前を走り去ってしまった。
「ありゃりゃ。これでまた、心証悪くしたな……」
林田は、そっと玄関を閉めて帰って行った。
「最悪だわ。今日は……」
林田を他所に、雛子は煮立った風呂の湯を汲み揚げた井戸水で薄めていた。
早くしないと早川親子が来てしまう。
雛子の中で、この事の元凶となった林田の印象は、更に悪くなっていた。
長い田植え休みを終えて、学舎に子供達の声が戻ってきた。
「おはよう!」
雛子は何時もの様に、登校して来る子供達を校門の前で出迎えていた。
元気いっぱいの声は、いつでも、聞いた側の気持ちまで元気にしてくれる。
「先生、おはよう!」
ヨシノが来た。やはり、背中には貴之をおぶっていた。
唯、何時も着ていた寝んね子半纏は無くなって、帯だけにと衣替えをしていた。
「先生、この間はありがとう」
「こっちこそ。黄鶏ご飯、美味しかったわ」
ヨシノは教え子だが、今度の件が親しみを一層深くしてくれた気がした。
にこやかな表情の雛子に、高坂が話し掛けた。
「田植え、頑張ってましたなあ」
予想もしない言葉は、人を混乱に陥れる。