E-3
「父ちゃんが、此処が終わったら一緒にって!」
「ありがとう!」
目の前にある一反程の田んぼは、まだ半分も田植えが済んでいない。
「じゃあ、先ずは此処を手伝うわね!」
雛子は言うが早いか、手提げから幾つか道具を取り出して、田んぼに入る準備に取り掛かった。
腕貫で袖をたくし上げ、手甲を着け、脚絆を足首から裾へと巻き付けた。
準備が出来た雛子は、裸足になって、そっと田んぼに足を入れた。
「ああ、この感じ!久しぶりだわ」
水の冷たさと、深い泥濘に足を入れたような感触。つい、懐かしさがこみ上げてくる。
雛子は、田んぼの中に点在する苗束をひとつ取ると、ニ、三株づつを紐に沿って植え付けてだした。
皆の目が雛子に注がれる。
一連の動きは、熟練者のように滑らかだった。
「先生。上手だなあ」
「もう十年も前だけど、案外、身体は覚えているわね!」
久しぶりの田植えの感覚。長野で親しくしてくれた百姓夫婦の顔が思い浮かぶ。
甦る思い出に、雛子の気持ちは高揚していた。
「暇だねえ……」
雛子が田植えに勤しんでいる頃、林田純一郎は、畳部屋に寝転がって窓の外を眺めていた。
美和野村に赴任するに当り、家事一切を不得手とする林田は、一軒家に住むのではなく、助役の椎葉に下宿場を頼んでいた。
椎葉は、村の実力者である大田原に打診するが、屋敷に抱える人夫や女中との揉め事を嫌った大田原に断られてしまった。
椎葉は仕方なく、自宅の離れに林田を住まわしたのだが、村民の殆どが百姓の上、百姓にとって一年で最も忙しい田植え時期とあっては、林田の相手をする暇人など何処にも居なかった。
そういう訳で、林田は退屈を持て余していたのだ。
「それにしても……」
林田の頭に昨夕の光景が浮かび上がる。
泥の着いた顔で憤慨する雛子を思い出すと、自然と笑いがこみ上げた。
到着直後に、椎葉から春に赴任したばかりの女性教諭が居ると教えられ、さっそく挨拶でもと出向いたのだが、あんな泥だらけで百姓姿をしたのがそうだとは、思いもしなかった。
「でも、こんな過疎村には、ああいうのがお似合いかも知れんな……」
生徒数十九名で一人の教師が受け持つのは六、七名。これが街中の小学校なら、四十から四十五名を一人で見る必要がある。
少数を受け持つのは、勉強や諸問題に対して目が行き届き易く、新米教師の新任先には向いている。ましてや雛子のように 、百姓仕事も厭わない人間なら尚更だ。
「何でかなあ……」
林田の脳裡に二年前の事が去来する。研修期間を終えて、新任した学校で教育に燃えていた自分の姿が。
「辞めた。独りだと、陰鬱な事を思い出してしまうな」
立ち上った林田は部屋を後にすると、廊下を通って母屋の様子を窺ったが、家人は出払って誰も居ないようだ。
「仕方ないか。田植えだし」
林田は、そう独り言を呟いて家を出て行ってしまった。
行く先など決めていない。気の赴くままに彷徨い歩いた。