戯れの記憶-2
「怒ってるんだね・・・そりゃそうだよな、俺、優柔不断だったと思う。でも、ほんとにあいつとはなんでもないんだ、あの、後でゆっくり話すから」
くどくどと言い訳を繰り返す斎藤にうんざりしながら、また店内を眺める。酔いがまわって馬鹿騒ぎを始める人間たちのなかに、もうひとつ熱心にエリナを見つめる目があるのに気付いた。
短髪、浅黒い肌、細身の体を持つ男。意志の強そうな目と鼻筋の通ったその顔には見覚えがあった。記憶の扉が開く。狭い店内を埋め尽くす本たち。黴とインクの匂い。スリルと快感・・・叫び声と慟哭。
今度はしっかりと男の目を見てやる。男は目をそらさない。エリナは店の出口の方を見てから、もう一度男に視線を戻した。男はわかった、というように軽く頷いた。
再び斎藤の相手をし、わけのわからない馬鹿騒ぎにも笑って見せ、どうにか時間をやり過ごす。仲間たちの話題は来月に開催されるというレースの話に移り、それにエリナも参加しないかと誘われた。
あまりに熱心に誘われて断るのも面倒になり、参加すると返事をした。N県で一泊二日。斎藤たちのイベントにはまったく興味を惹かれなかったが、N県なら場所によっては岡田の別荘が近いかもしれない。あの狂乱の宴をもう一度見るのも悪くない。まだ当日まで時間はあるのだから、気乗りしなければ後日断ればいい。
やっと宴会が終わり、斎藤を含めた数人のメンバーが次回の予定を相談し始めたとき、エリナはひとあし先に席を立った。
「ちょっと外の空気が吸いたいの、先に出ていてもいい?」
「あ、ああ・・・すぐに行くからちょっと待っててくれよ」
「ええ、今日は送ってくれるんでしょう?・・・帰りにわたしの部屋に寄っていって」
赤面する斎藤を置き去りにして店の外に出た。ひんやりとした風が気持ちいい。ほどなくして、宴会の最中に視線を送り続けていた男が追いかけてきた。エリナの腕を掴んで、電柱の陰に隠れるように立つ。男が背を屈めて顔を近づけてくる。薄い唇がゆっくりと動く。
「僕のこと、覚えてる?」
「ええ。名前は忘れてしまったけれど」
男は苦笑する。エリナの手をとって愛おしそうに撫でた。
「トオル・・・陰山トオル。君にはもう一度会いたいと思っていたんだ」
「そう。あなたには・・・悪いことをしたわ」
トオルは否定するように静かに首を横に振る。
「親父のことは仕方ないよ。事故だ。僕はあいつが大嫌いだった」
居酒屋の中から残っていたメンバーが大声でふざけながら出てくる。トオルは少しまわりを気にしてから、エリナに紙切れを渡した。
「これ、僕の連絡先。いつでもかまわない、気が向いたときに」
少し潤んだ瞳と燃えるように熱い体温を伝えてくる手は、エリナの興味を惹いた。前に見たときはもっと子供に見えて、少しも魅力を感じなかったというのに。
「あなた、ずいぶんと大人になったのね」
「あはは、同い年なのに。それにあれからまだ2年しか経っていない」
どちらからともなく、唇を重ねた。軽く触れるだけのあわただしいキス。トオルの唇についたエリナのグロスが淫靡に濡れて光る。このまま衝動にまかせて抱き合ってみたい。そうすればさぞかし気持ちがいいだろうと思う。
店先が騒がしくなってきた。喧騒の中に斎藤の声が混じる。
「エリナ?あれっ、どこに行ったんだろう・・・」
トオルが名残惜しそうに手を放す。あとで連絡する、と囁いてからエリナはトオルにくるりと背を向け、斎藤の隣に駆け寄った。
「ああ、エリナ!そこにいたのか。帰っちゃったのかと思ったよ、待たせてごめんな」
「いいの。さあ、帰りましょう」