やっぱすっきゃねん!VS-12
時刻は夜十時を指していた。
直也は、自室で明日の準備を行っていた。
兄の信也に身体のケアを施してもらい、アイシングを行って夕食も摂った──後は、準備を終えて眠るだけ。
しかし、その表情には余裕がない。思いつめた顔をしている。
その顔は、昼間の試合中に時折、見せていた物と同じだった。
(やっぱり、ちゃんとしておきたいな……)
直也は突如、準備の手を止めて部屋を飛び出た。階段を下りて行くとリビングはまだ明かるく、室内では両親が就寝前の寛ぎを享受していた。
そっとリビングの前を抜けて、キッチン入口に据え付けの子機電話を取り、リビングから遠い座敷間へと向かった。
明かりのない部屋で、子機の放つ光が目に痛い。
直也は、ずっと掛ける事が出来なかったアドレスを押した。
短い接続音の後に、呼び出し音が始まった。鼓動が異様に速まり、口の中が一気に渇くのが分かる。二回、三回と呼び出し音が耳許で鳴った。
「はい……」
四回目で相手が出た。本人ではなかった。猛烈な緊張感に苛まれながらも、直也は受話器に向かって声を挙げた。
「や、夜分にすいません。ど、同級生の川口直也ですが……」
受話器からは「ちょっと待ってね」という声を残して、保留音に変わった。
題名も知らない、でもよく耳にするクラシックが流れていたが、今の直也には聴こえていなかった。
それから、何れ程経っただろうか。突如、保留音が消えて肉声に変わった。
「はい。替わりましたが?」
聞こえて来たのは、相田有理の声だった。
「もしもし?替わりましたけど」
「……や、夜分にごめん」
いつもの威勢からは想像出来ない程のか細い声。
「何かあったの?」
有理は、初めて直也から来た電話に戸惑いを持っていた。
「いや……明日の事で、た、頼みたい事があって」
直也は勇気を奮い起たせて、言葉を続ける。
「──帽子に、字を書いてくれないか?」
必死の頼み事。
短い沈黙の後、有理は「いいわよ」と快諾した。
「ありがとう。い、今から行くから」
「うん。待ってる」
電話は切れた。直也は笑顔で、さっさと子機を元に戻すと二階へと駈け上がる。
タンスの引き出しを開けた。ビニールに包まれた、真新しい野球帽があった。
この為だけに、残していた。
直也はそれを掴んで再び階下へと駆け下りた。
「直也!何してるのッ」
あまりの騒がしさに、リビングの母親が何事かと出てきた。
「ちょっと出掛けてくる!」
「こんな時間に何処行くの?」
「すぐ帰るからッ」
直也は、行く先も告げずに家を飛び出した。