狂楽の部屋-2
ふいに携帯電話が鳴った。
着信の名前を見て、エリナは微笑んだ。彼女のまわりにいる男たちの中でも、唯一エリナが心を許せる相手、岡田健史の名前がそこに表示されていた。
『もしもし、おはよう。岡田です』
「おはよう。どうしたの、早いじゃない」
岡田は40代後半の独身男性で、何の仕事をしているのかはエリナも知らなかった。気まぐれに登録した出会い系サイトで知り合い、そのまま2年ほど関係を続けている。エリナが望まないことはなにひとつ要求せず、また愛情を押し付けてくることもない。彼の隣にいるとき、エリナは心から安らいだ気持ちになれた。気が合う相手というのがいるとすれば、まさに岡田はエリナにとってそういう存在だった。
『これからちょっと遠出するんだけど、よかったら一緒にどうかなと思ってさ。急だし、あんまり出かけるのは好きじゃないだろうから、無理ならそれでかまわない』
「遠出?どこまで?」
『ほら、前に少し話したことがあっただろう?もしかするとエリナが気に入るかもしれないイベントの話。N県の山奥でやるんだけど、一緒に行くならいまから車で迎えに行くよ』
イベントの話とは何だっただろう。なにか聞いたような気もするけれど、よく覚えてはいない。少し考える。体は疲れているものの、岡田の話に少し興味もあった。
「ねえ、少し疲れているの。むこうに着くまでずっと眠っていてもいい?それでいいのなら行くわ」
『あはは、もちろんかまわないよ。そうだな・・・あと1時間以内には着くから』
嬉しそうな声で電話は切れた。出かける準備をしながら、エリナは今しがた電話を切ったばかりの相手に想いを巡らせる。
身長はそれほど高くないが、全身を覆う鋼のような筋肉はため息をつくほど美しいと思う。その荒々しい印象さえある大きな手は意外なほど繊細な動きでエリナを悦ばせ、体を合わせたときにはきちんと絶頂まで導いてくれる。決して自分勝手なセックスをしない、珍しい男。
普段はごく普通のオジサンといった風体であるにもかかわらず、細いフレームの眼鏡の奥にある瞳は、ふとした瞬間に野生のライオンのように鋭く冷たい光を放つ。その目はエリナの好みにぴったりと合った。あらゆる意味でエリナの相手が上手な、愛すべき大人の男。それが岡田健史である。
ほぼ予定通りの時間に迎えに来た岡田と共に、エリナはN県にあるという目的地へと向かった。ごみごみとした街を抜けて滑るように高速道路へと入る。車の流れは渋滞も無くスムーズで、爽やかに晴れ渡った水色の空の下でのドライブはなかなかに気持ちの良いものだった。
岡田は運転しながら横目でちらりとエリナの様子を確認し、満足そうに微笑んだ。
「そういう格好もするんだね。初めて見たから新鮮だな」
「格好?・・・ああ、山の中に行くって聞いたから」
細身のジーンズにTシャツ、その上からパーカーをはおっただけの軽装。ふだんはあまりパンツスタイルを好まない。シルエットの美しいワンピースや歩くたびに裾がひらひらとするようなスカート姿でいることが多い。そういうものを好む男たちが少なからずいるからだ。
「いいね、よく似合っている。でも山の中を歩かせたりするつもりはないから、それは安心していいよ。そうだ、むこうについたらとっておきのワインがあるんだけど、それもきっとエリナの気に入ると思うんだ・・・」
穏やかな岡田の声はエリナの耳を優しく愛撫するようで、その心地よさのあまりエリナはいつしかまどろんでいた。いつも岡田と一緒にいるときだけは、他の男たちとは違って自然と気持ちが緩んでしまう。なにかを確かめ合ったわけではないけれど、心の深いところで結びついているような、そんな感じがする。
不思議なひと・・・
岡田が言うからには、目的地でのイベントはきっと興味深いものであるに違いない。小さな期待を抱きながら、エリナは皮の匂いが強く残る助手席のシートに深く体を預けた。