D-9
「これは……」
雛子は息を呑んだ。
裂目の下には、渓流があったのだ。
「こんな山の中に……信じられない」
谷深い渓流は、降りる足がかりも見当たらない。
「この先が“秘密の場所”だよ」
哲也が厳かに言った。
確かに。こんな処、よほどの好き者でもない限り、見つけるのは至難の技だ。
2人は、裂目に沿って上流へと進んだ。
「ほら、あれだよ」
指した場所には、滝壺のような溜まりがあった。
「す、すごい……」
溜まりは翡翠色の水を湛え、明らかに周りとは一線を画していた。
おそらく、湧水が長い年月をかけて、渓流の水底を侵食したのだろう。
「先生、こっち来て」
哲也は、渓流から隠れるように腹這いになった。
雛子も真似てうつ伏せる。視線が、溜まりを捉えるにはちょうど良い高さだ。
「ほら、あそこ見て」
溜まりの傍にある巨岩。その頂に、水面より濃い翡翠色の鳥があった。
「あれは、なあに?」
「あれは翡翠だよ」
雛子は目を凝らす。
翡翠色の身体は百舌鳥くらいか。その割には異様に大きく鋭い嘴。跳ね上がった頭の毛も一種独特だ。
(ずっと、溜まりを見てる)
翡翠という鳥は微動だにせず、何かを待っていた。
雛子にも、それが“狩り”の行動だと解った。
翡翠は身動きしない。まるで、木工細工でも置いたように。
雛子の耳には、水の流れと自分の吐息だけが聞こえていた。
その時、水面に不自然な波紋が現れた。
次の瞬間、翡翠は、目にも止まらぬ速さで溜まりに飛び込んだ。
「あッ!」
翡翠は水面から現れて、元の場所に飛び上がった──わずかな間にだ。
嘴には、身体の丈半分ほどある魚を咥えていた。
(魚を獲る鳥なんて初めてだわ。それに、あの鮮やかな翡翠色……)
雛子は、翡翠という鳥にすっかり魅了された。
翡翠が獲った魚は、逃れようと尾を振って暴れまわる。このままでは嘴から外れそうだ。
そう思って見ていると、翡翠が、やおら嘴を振り上げて魚の頭部を岩場に叩きつけた。