D-10
「……」
あまりの出来事に、雛子は声もない。
翡翠は、その後も魚を岩場に叩きつけて、動けなくなったところで丸呑みにした。
「あの鳥、ちゃんと解ってるんだ……」
「夏になったら、もっと色んな種類が来るよ」
「本当にッ」
雛子は喜んだ。
今日は体力のなさを痛感させられた。が、次回訪れるまでに、もっと身体を強くせねばと考える。
「次に……」
「シッ!」
突然、哲也が厳しい視線を向けた。雛子の表情が凍った。
何か、異変を察知したのだ。
哲也は、息を殺して身を低くした。雛子も真似た。
視線は、翡翠のいた溜まりを見つめている。
キュルリーッ!キュルリーッ!と、翡翠の飛び立つ啼き声が響いた──何かが、溜まりに近づいている。
すると、渓流の岩間から銀朱色の脚がぬっと現れた。
鹿だった。
(はああッ!)
雛子は声が出そうなのを堪える。臆病な鹿は、わずかな気配でも逃げてしまう。
2人共、下草の間から鹿の様子を窺った。
最初、鹿は2人の方をジっと見ていたが、やがて安心したのか、溜まりの傍に近寄った。
(水……飲んでる)
首を垂らし、口を水面につけて水を飲みだした。
その間も、耳を忙しなく動いている──近づく気配を敏感に察知するために。
猪や熊など、攻撃性のある獣なら出会すこともある。
だが、鹿は出会すことは皆無である。それほど人を嫌う。
それを知る雛子も哲也も、この機会を与えてくれた山の神様に感謝した。
空が紅蓮に染まる頃、雛子と哲也は帰ってきた。
「今日は本当にありがとう!」
満面の笑みが、想いを物語っていた。
「よかった。先生が喜んでくれて」
「鹿にまで遭えたなんて、本当に幸運だったわッ」
「僕も。彼処は何度か行ったけど、初めてだったッ」
互いが、散策の成果に話を弾ませた。
「あ、哲也くん」
雛子が言った。
「……今日も、お母さんを呼んでくれないかな?」
「どうして?」
「2人共、結構ひどい有り様でしょう?」
言われて我が身を見た。確かに泥まみれだ。
「先生も、ずいぶんと汚れたね」
雛子にいたっては、野良着も顔も泥んこだ。
「お風呂沸かすからさ。入りにいらっしゃいよ」
「わかったッ!僕、手伝うよ」
2人は、裏に回って風呂の準備にかかった。
雛子が風呂釜に井戸水を汲み入れると、哲也は焚き口を団扇で扇いで火を起こす。