居場所-7
「……着いたよ……」
優しい声で囁かれてハッと我にかえると、車窓の外に住み慣れたアパートの外壁が見えた。
「……部屋には、入れてもらえる?」
気をつかっているかのような言葉とは裏腹に、その表情は自信たっぷりの妖しい笑み。
今すぐ一輝が欲しくてたまらない―――。
きっと私の顔には今、そんなはしたない欲望がハッキリと現れているに違いないのだ。
妻子ある男性と一線を越えてしまうことへのためらいは、もちろんある。
しかし今の私には、どんなにまっとうな倫理や道徳も一切意味をもたないように思えた。
逆らっても逆らってもまとわりついてくる運命ならば、いっそのこと受け入れてしまうべきなのではないか―――。
そんな身勝手な論理で、私は自分で自分を納得させようとしていた。
――いいわ――。
そう言おうとして顔を上げ、窓から何気なくアパートのベランダを見上げた時、思いもよらない相手と目が合った。
隣の部屋のベランダから、「あの男」がじっとこちらを見下ろしているのだ。
「……あ……アイツ……」
たちまち昨日のボヤ騒ぎを思い出して、不快な気分が蘇る。
しかしそれよりも問題なのは、あの男が会社に出入りしている業者だったということなのだ。
「……あの……ごめんなさい。今日は……ダメなの」
「………そう」
私の視線の行方を確かめるように、一輝が身を乗り出してベランダを見上げた。
「……あれ?……」
例の男の姿に気づくと、一輝は驚いたように目を見開いた。
「あの男、確か……弁当屋の……」
「そう。そうなの……だから……やっぱり……その……マズいと思うの」
こんなふうになってみると、やはり一輝は手に入れてはならない、手に入れたいと望んではならない存在なのだと痛感する。
「でも……あいつになら、前に会社でイイコトしてた時に一度見られてるよ」
平然とした顔で言い放つ一輝。その余裕の意味がわからない。
「知ってるわ―――でも、あっちはあれが私だったって気づいてないの。会社に毎日出入りしてる人だし、これ以上余計なこと知られないほうがいいわ」
「……ふうん……」
一輝は意味ありげな表情を浮かべてニヤリと笑った。
「祐希が付き合ってるのって……もしかして彼?」
「………え?……ち、違うわよ……なんで私があんなヤツと……」
あまりに突飛な発想に、つい大声が出る。
「だって……アイツに知られるのがすごくイヤみたいだからさ」
「は?!ち、違………」
必死で否定はしたものの、アイツに一輝とのことを知られたくないのは、アイツが出入りの業者だからということだけではないのは事実だ。
昨日あれだけアイツを非常識呼ばわりしてしまった手前、自分は妻子ある男を連れ込んで不倫という訳にはいかない。
「アイツとは喋ったのも昨日が初めてだし……すっごく感じ悪くてケンカになったくらいなの。だから、全然そういうんじゃないのよ」
「………でも……彼、今日ロビーでも心配そうに祐希のこと見てたよ―――」
「……はっ?そんなワケないわよ。昨日のことがあるから因縁でもつけようとして見てただけよ。きっと」
「ふうん……そんなふうには見えなかったけど………まあわかったよ……今日は大人しく帰る」
クスクスと可笑しそうに笑う一輝。
「……ホントよ……」
ムキになって否定すればするほどますます逆効果のような気がして、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
「―――じゃ、おやすみ。キスしたいけど、彼が睨んでるから我慢するよ」
車の窓から顔を出して穏やかに微笑む一輝は、もう会社にいる時のような上司の表情で―――私はホッとしたような切ないような気持ちで、走り去るタクシーのテールランプを見送った。