『兵士の記録〜エリック・マーディアス〜第三部』-134
第五三話 《変後暦四二四年三月七日》
「あと三分遅れていたら置いて行った所だよ。手間取ったようじゃないか?」
格納庫に入るなり、ナインの馬鹿にするような声に出迎えられた。もはや制圧済みなのだろう。格納庫内には数人の整備員が倒れているだけで、動くものの気配は無かった。
ナインの通信妨害の成果か、移動研究所内にそこまで大きな騒動は起きていない。通信ができない事による混乱はあるだろうが敵襲があった事が全体まで回っていないだろうし、格納庫を占拠されている事すら悟られてはいまい。
「割とな。おかげで人質までとるハメになった」
倒れている整備員達を一瞥してから、エリックはアリシアを目で指し示す。整備員達が死んでいるか生きているかなど、周りに広がる血溜まりを見れば聞くまでも無かった。
「……貴方は……」
ナインが此処に居るという事態に混乱したのか、傷の痛みで荒い息を吐くアリシアがポツリと呟いた。それを無視して、エリックは彼女をそっと床に下ろす。
「こいつの治療を頼めるか?」
「面倒を増やしてくれるな、お前は」
言葉の割には楽しげな様子で答えたナインが歩み寄り、アリシアの腕をとる。どうやら治療してはくれるようだ。傷の痛みと状況の所為で頭が上手く働かないのか、アリシアはただナインのするがままに任せている。
ナインはアリシアが着ている服の血に染まった袖を易々と破り、露になった白く華奢な腕にできた銃創を診る。その表情には、壊れた電器製品を分解して修理箇所を探しているような印象を受けるが、実際ナインにとっては人間の治療などそんなものなのだろう。
「治してくれるのか?」
てっきりそれなりの対価を要求されるものと思っていたエリックは、怪訝そうに尋ねる。ナインに限って純粋な善意という事はないだろうし、何か裏があるのではないかと思ってしまうのだ。
「不審かね?」
問いかけの意味に気付いたか、ナインはいつもの薄笑いを浮かべてエリックに向き直って見せる。
「私は唯、私のオリジナルに興味があるだけだよ」
言葉を続けながらアリシアの腕の銃創に手を当てるナイン。ナインの言葉に一瞬怪訝そうな顔をしたアリシアだったが、無遠慮に傷口を触れられて、ぎゅっと痛みを堪えるように目を瞑る。
「……どういう意味だ?」
そんなアリシアの様子も気になったが、とりあえずエリックは目先にある気になる事を聞いてみる。オリジナルとは一体何の事なのか、意味がわからなかった。
「そのままの意味さ。『私』の思考回路は、大部分がワイザー博士の作った人工知能プログラムをベースにして作られている」
話をしながらも、ナインは掌から出現する白い粉をアリシアの腕に振り掛けて行く。傍目には、何も無い所から白い粉が出現しているように見える。実際はナインが子供の体を改造して掌に素体ナノマシンを格納し、それを電気刺激によって増殖させているらしい。
……ナインから聞いた話なので、エリックにもよくは判らないが。
「貴方は……まさか…………」
腕に振りかけられた白い粉が、あっという間にかさぶた状になって傷口を塞ぐのを見て。アリシアはナインの方を凝視した。端整なその顔は、微かに目を見開く事で驚愕を表している。
治療が始まれば痛みは直ぐに引く事を経験から知っていたが、アリシアも同じだったらしい。アリシアの様子から痛みを示すものが消えていくのを見て、エリックはナインに尋ねていた疑問も忘れて安堵した。
「恐らく予想通りだろうね」
驚くアリシアの反応を面白がるように、ナインが言葉を紡ぐ。
「ナノマシン制御プログラム、通称コードはナイン。改めて宜しく」
「……!」
言葉を失ったように、アリシアが息を飲む。状況が判ったという事らしい。