是奈でゲンキッ!-6
正直、記録などどうでもよかった。最速記録などくそっ喰らえである。
とにかく是奈は、こんな馬鹿げたイベントは、早々に終わらせて、早い常、自宅へと帰りたかった。……が。
ちょっとだけ嘉幸の気を引ければと、淡い期待も有ったようでもある。
だからと言っても、怖い気持ちには変わりは無い。
是奈は「もう駄目ぇ!」とばかりに、K点少し手前でブレーキを掛ける事にしたようである。はっきり言って勝負など、初めから投げていた。
是奈は、自身の持てる力の限りを両手の握力に注ぎ込むと、勢い付いた自転車のスピードを落すべく、ハンドル両脇のブレーキレバーを、前後同時に、思いっきり握り締めた。
と、その時である。
”ブッチンッ!!”
余りにも力強い握力のせいだったのか、あるいは安物自転車による性能限界の為ゆえ、当然の成り行きだったのか! 是奈がブレーキレバーを握り締めた瞬間! ブレーキを掛ける為のワイヤーが前後共に音をたてて引き千切れたではないか!
当然、全くもってブレーキが効かなく成った○ャア専用のような真っ赤な安物自転車は、通常では考えられない速さで、K点を通過して行ったのであった。
K点付近で、その光景を目の当たりにした生徒達は。
「うおぉーすげーーっ! 朝霞の奴、気合はってるなあっ!!」
「新記録間違い無しじゃん!」
「きゃー! 是奈ちゃ〜〜んっ! すてきーー!!」
一斉に、黄色い歓声を上げていた。
「いやぁ〜〜〜〜あっ! 誰か助けてえぇーー! 死んじゃう死んじゃうーーーっ!!」
最早、是奈本人にもどうする事も出来なかったであろう。K点を越え、更なる加速をする自転車に、しがみ付いて居るのが精一杯と言ったところであった。
滝のような涙と鼻水を、まるで流れ星の尾っぽごとく、後方へと撒き散らしながら、是奈はゴールである坂下のT字路を全力疾走で駈け抜けると。
彼女の通学用兼プライベート用の真っ赤なママチャリは、是奈の細身の身体を乗せたまま、空中へと勢いよく飛び出して、鳥の如く華麗に空を舞っていた。
(もう……どうでもいいやぁ……)
そんな言葉が是奈の頭の中を余技っていた。
恐らく、自分はこのまま死ぬんだろう…… もしくは、もう既に自分は死んでいて、このまま天国に行くに違いない…… そんな飛躍した思考と共に。
出来ることなら、最後に一目、憧れの田原くんの姿を見ておきたい と、ゴール地点に居ると聞いた嘉幸の姿を、空中を舞いながら、是奈は必死になって探した。……そして。
『居たっ!』
是奈は、空を飛びながら、最後に見た嘉幸の姿に、号泣した。
見ると、どうやら嘉幸は、是奈がゴール地点に到達する前に帰り始めていた様子である。白いマウンテンバイクに跨り、颯爽と走り去っていく彼の後ろ姿だけが、是奈の瞳に虚しく映るのみであった。
是奈は手を伸ばし。
「そっそんなぁ〜〜……田原く〜ん! 行かないでぇ〜〜!」
と、叫ぶ間などは、無かったであろう。
あっという間も無く、田んぼの中ほどまですっ飛んで行くと、いっと言う間も無く、何十本もの稲穂を薙倒して、まっ逆さまになって、泥の中に突き刺さったのであった。
「出たぁ! 新記録だわぁ!!」
ゴール地点で是奈の通過タイムを、陸上部から借りてきたストップウォッチで計測していた、佐藤都子がそう叫ぶと。
その都子の周りに集まって居た、仲間の女子生徒たちも、歓声を上げる。
その声を聞きつけてか、側で見ていた男子生徒達も『イーヤッホ〜〜!』と、興奮して奇声を上げ始めると。駆けつけた、彩霞と真由美も一緒になって、皆で喜び、大はしゃぎをするのであった。
どうやら彩霞達B組の連中にとっては、是奈本人の事より、氷坂を下り降りるタイムの事ばかりが気になっていたらしく。実際、坂を下りきった後、是奈がどうなったか、などと言う事は誰一人として考えて居なかった様子である。
「ねえねえっ! ところで朝霞さんは、何処へ行ったの?」
不意に、冷静さを取り戻し、真由美が真顔でそう言うと。
集まった生徒達も、ようやく彼女の事を思い出したのか、キョロキョロと辺りを見回し始めたりする。
その時である。
”アハァ〜〜ンハァンハァア〜〜〜ンッ!”
と、T字路脇の下方1メートルの台地に広かった田んぼの真中辺りから、可愛いらしくも、せつない泣き声が辺りに響き渡ると、恐らくそれを聞いた全員だったであろう、歓喜に沸いた歓声も何処へやら、皆、青い顔をしたまま立ち尽くすのみであった。
彩霞、真由美、都子の仲良し三人組みは、慌てて道路の縁まで駆けつけると、声のする田んぼの方へと視線を送る。
そして、田んぼの真中辺に出来た、これまたみごととしか言い様の無い、ミステリーサークルの様な人型の大穴に目を凝らし、その中央にたたずむ『はにわ』の様な泥の塊に、目を奪われ、しばし絶句していた。
どうやら泣き声は、その『はにわ』が出している様子である。
「ぜっ……是奈っ!」
そう彩霞は声を上げると、まいったな……これはっ! と、渋い顔で俯きながら、額に手を当て、首を横に振っていた。
その彩霞の隣で、真由美と都子は。
「よかったぁ、朝霞さん。……生きててっ」
「是奈ちゃ〜ん! 早く上がって来なよ〜! 新記録だぞ〜〜!」
なんて事を呟いたり、叫んだりして。まったくもって無責任であった。
そんな彼女達の声を聞いてか、是奈は一層大泣きを始めると、その涙が顔に付いていた泥を洗い流し。そんな彼女の姿を見ていた生徒達は。あたかも、触らぬ神に祟りなし! とばかりに、知らず知らず、その姿を消し。後には彩霞達三人組と、田んぼの真中で泥だらけに成り、前だか後ろだか解らなくなった是奈の姿だけが、沈み行く夕日に、赤く染まっていた。