全一章-2
こんなこと習ったわけではありませんが、介護の仕事をしていた経験で、自由にならない身体を持て余す病人やお年寄りの苛立ちは充分理解しております。まして、若くして、しかも希望に満ちた門出の日にこんな状況におかれた舞衣ちゃんの気持ちになってみれば、自分の不幸に向ける怒りが、あらゆる物に当たり散らす方へ向かっているのだと想像できます。かといって、同情心を見せれば、甘えが怒りを増幅させることも経験上知っておりましたから、内心ではドキドキしながらも平静を装い、舞衣ちゃんの機先を制する感覚でした。
ひと当たり見回しながら、メモを取り出してチェックする振りまでしました。
そして、取りあえず床に散乱するモノを額板を使って部屋の隅に寄せ、かなりの空間ができたところで、初めて舞衣ちゃんに近づき、その目を正面から見据えました。
動揺、狼狽、混乱、驚喜、胸騒ぎ・・・私の心を、複雑に絡まった感情が一瞬のうちに満たし、やがてその気の迷いは消えて震えだけが残りました。
<こんな出逢いってあるのかしら・・・>
脂気の抜けた顔。多分、十分な食事も水分補給もしていなかったのでしょう。でも、明かりの下で見る顔は、青ざめてはいるものの、抜けるような白さと柔らかな弾力を持っていただろうことが想像できました。
大人びた細面。睫毛の長い大きな目。きかん気を感じさせる厚みのある大きめの唇・・・間違いなく、華やかで活動的な美しい女性になる下地を持ち合わせていました。もし普通の状況でこの子に出会ったとしたら、私はたちどころに恋に堕ちていたかも知れない、私の子宮を締めつけるような魅惑に満ちた顔立ちでした。
そうなのです。私は同性愛者なのです。それだけに、舞衣ちゃんの女心を痛いほど感じてしまいます。自分の美しさを自覚しているだろう舞衣ちゃんにしてみれば、突然肢体不自由になってしまった嘆きはどれほど大きかったことでしょう。
世の中の全てを敵に回すかのような憎悪を宿した目は、美しいだけに凄絶な幽玄の世界に生きる女性を思わせました。と同時に、私自身の中に、やりきれない悲しみが充ちてきて、思わず涙が頬を伝いました。
舞衣ちゃんの様子を確認するどころか、事故前の姿を探しながらみとれていたと言ってもいいでしょう。しばらく立ち竦んでいた私は、我に返って乱暴に涙を拭うと、舞衣ちゃんには口も聞かずに部屋を出ました。勿論内心では、抱きしめてやりたい憐憫の情が沸き上がっておりましたけれど、無視するように振る舞ったのは、敵か味方か、人間か亡霊か、今までの介護士とは全く違う、捕らえどころのない私を見せつけておかなければ、という計算が意識下にあったのです。
案の定舞衣ちゃんは、そんな私に反応する切っ掛けもなく、固まったまま見つめるだけでした。ドアを閉めるときにもう一度振りかえり、チラと見た舞衣ちゃんの瞳には、あの、人を刺すような鋭さが消えていました。
「三奈子さん・・・何とか舞衣を助けて頂けますか? 1ヶ月あまりも入院して、やっと退院できたと喜んでいたのに、もう1週間以上もオムツが替えられないんです。リハビリの通院だってできません。いえ、介護士さんも私も、あの子に近付けないんです。舞衣は、いっそ死んでしまった方が良かったと思っているのでしょうね。あんなに・・・あんなに可愛い子が」
弥生さんの涙声が、舞衣ちゃんに捕らわれていた私の心を現実の世界に引き戻してくれました。
「あの子を死なせてなるものですか。わたし・・・わたしやってみます。舞衣ちゃんを立ち直らせてみたい。いえ、立ち直らせずにいられるもんですか」
「主人も私も、甘やかしたっていう気持ちはないんですけど、一人娘だけに可愛がることしかなくて。こうなってみると、何をどうして良いのか、親なんて恥ずかしくて言えませんわ」
「突然のことですもの。親ならなおのこと、頭が真っ白になってしまうものなんでしょうね。弥生さんも可哀想に」
「私たちはどうすれば・・・」
「わたしなりにやってみます。ちょっと手荒なことをするかも知れませんけど、ご主人も、弥生さんも、しばらくわたしのやることに目を瞑っていてくださいます?」
「はい、それはもう・・・全て三奈子さんにお任せするわ、というより、主人も私も、ただただおろおろするばかりで」