about me : ノムラハルト-1
…朝日ってこんなに眩しいんだな。
初めての夜勤を終えて、疲れた身体を引きずるようにバイト先から越してきたばかりのアパートへ向かって歩く。途中にある大きな公園のベンチで一休み。これから先やっていけるのかな、オレ。やっぱり母ちゃんが望んだ通り地元の大学に行けばよかったかな。思わずため息がこぼれる。そういえば、ねーちゃんがよく言ってた。
「ひとつため息をつくとひとつ幸せが逃げるんだよ」
迷信なんだろうがねーちゃんはそう信じていて、よくそう言い聞かせてくれた。ねーちゃんって呼んでいるが、実の姉ではない。オレは一人っ子だから。隣の家に住んでた年の離れた幼なじみ。オレが中学に上がる前に突然この世を去った、オレの初恋の人。目を閉じる。聞こえてくるのは軽快な衣擦れの音。なぜか気になってまぶたをあけ、音のする方へ視線を送ると一人のランナーと目があった。
ひとつに結いた長い髪を揺らして走る洒落たランニングウェアの女性。ランニング雑誌のモデルさんですか?って聞きたくなるようなスタイルの良さも、走るフォームの美しさも凛とした表情も、他のランナーとは比べものにならないくらい輝いていて目を奪われる。
「おはようございます」
目の前を通り過ぎる時、ぼけーっと見とれているオレにまできちんと挨拶してくれた。たぶんオレよりは年上だろう。ねーちゃんが生きてたら、ねーちゃんと同い年くらいの人だろうか。すばしっこかったねーちゃんも、こうやってオシャレなウェアで颯爽と走っていただろうか。ねーちゃん、ため息ひとつついたけれど小さな幸せがやってきたよ。オレ、もう少しこの場所で頑張ってみようと思う。我ながら単細胞だけど。
それから数日後。幸せは再びやってきた。バイト先のコンビニにやって来たキャリアウーマン風の別嬪なお姉さんは間違いなくあのランナーさんだ。お会計が終わったあと、
「ありがとう」
と微笑んでくれた。単純だけどそれだけでオレは人生二度目の恋に落ちた。毎日やってくるわけではないが(っていうかオレも毎日バイトしてるわけじゃないけど)かなりの確率でお姉さんは店にやって来てビールと煙草を買って帰っていく。
「157番、ひとつ」
言われなくてもすっかり覚えてしまったランナーでキャリアウーマンっぽいお姉さんのイメージとはちょっと違う気がする銘柄。よく同じ時間帯に煙草を買いに来るお客さんは覚えやすい。高校時代地元でバイトしていた時もそうだったけど
「にーちゃんいつもの」
って言われてハイってすぐ差し出せるおっちゃんとか何人もいた。煙草以外にもこのおっちゃんはおでんの大根が鉄板で言われなくても器は小でつゆ多め、だったりあの兄ちゃんは言われなくてもフライドチキン用意、だったり。あの頃は地元だったしこのおっちゃんは何組の誰々の父ちゃんとかまるわかりの田舎だったってのもあるかもしれないけど。人の多いこの街でも顔見知りのお客さん、ってのが徐々に増えていく。後ろに誰も並んでいなければ世間話程度の会話をするお客さんだって出てくる。でもあのお姉さんにはなかなか声をかけられずにいた。いつも「ありがとう」と微笑んで帰ってくれるのに。仕事帰りにランニング中のお姉さんとすれ違うと、いつも「おはようございます」って挨拶してくれるのに。
半年くらい前。違う大学だけど同郷の友人と2人で飲みに行った時、ひとつ置いたテーブルにあのお姉さんがいた。お姉さんの向いには落ち着いた雰囲気の男性。お姉さんより少し年上だろうか。時々男の顔がお姉さんに近づいて、お姉さんはその度にクスクスと笑う。彼氏、だろうか。いつもオレが見ている凛とした雰囲気ではなく、ちょっと穏やかな感じっていうのだろうか。なんだか相手の男には心開いてます、って感じが漂ってる。
「そういえば陽人(ハルト)彼女できた?」
「いや、告る前から失恋してますが何か?」
「はぁ?」
友人は何言ってんだコイツって顔をしたが、その夜オレは人生初めての二日酔いを経験した。
「ふーん、来る者拒まず、去る者追わずの陽人くんが純愛ですか」
確かに。告られた時に特定の子がいない状態で、よほどの子じゃなければOKした。相手がしたい、って言えばセックスもした。でも、付き合う期間はいつも短い。
「私とバイトとどっちが大事?」
だとか
「陽人は本当は誰が好きなの?私じゃないでしょ?」
だとか言われて終わるパターンばっかりだった。女ってよくわかんねぇ。面倒くせぇ。でもやりたいお年頃。そりゃ来る者拒まず、になるでしょう。
「そんな陽人くんが純愛ねぇ。お相手の顔が見てみたいわ」
いやだから、すぐそこにいるって。とはさすがに言えず、たださして美味いとも思えないジョッキを空にする作業だけに集中したせいだ。どうやって帰ったのかよくわからないけれど、友人に迷惑をかけたことだけは事実らしい。
彼氏っぽい人がいると知ったあとも、お姉さんに対する憧れは消えなかった。もしかしたらオレは無意識にあの人の中にねーちゃんを求めているのかもしれない。最低だな、オレ。どんなに求めたってねーちゃんはオレのものにならないのに。ねーちゃんがいなくなる原因を作った張本人は、オレなのに。